聚光院茶室・聚光院見どころ(修学旅行・観光)

聚光院茶室

●聚光院茶室は1941年(昭和16年)5月8日に国の重要文化財に指定されました。
●聚光院茶室は江戸時代中期の1739年(元文4年)頃に建てられたと言われています。茶室は三畳茶室の閑隠席(かんいんせき)・四畳の桝床席(ますどこせき)・二畳の水屋・六畳二室などから構成されています。閑隠席は1741年(寛保元年)の利休150回忌に表千家7世・如心斎(じょしんさい)が建て寄進したと言われています。また閑隠席はかつて千利休自刃の席とも言われていました。桝床席は表千家6世・覚々斎(かくかくさい)好みとも言われています。
千利休は1522年(大永2年)に田中与兵衛と月岑妙珎の子として和泉国堺に生まれました。17歳から茶の湯を習い、先ず茶匠・北向道陳に師事し、その後茶人・武野紹鴎に師事しました。1544年(天文13年)に松屋久政らを招いて茶会を開き、その後堺の実質的支配する三好氏の御用商人になりました。1569年(永禄12年)に今井宗久・津田宗及とともに織田信長の茶頭になりました。1582年(天正10年)の本能寺の変後に関白・豊臣秀吉に仕えて茶頭になりました。1585年(天正13年)に秀吉が禁中茶会を催した際、号・利休居士を与えられ、天下一の茶人としての地位を確立し、1587年(天正15年)に秀吉による北野大茶湯も主管しました。ちなみに千利休は秀吉の政事にも関わり、キリシタン大名・大友宗麟が大坂城を訪れた際、豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告されたと言われています。しかし1591年(天正19年)に突然秀吉の逆鱗に触れ、1591年(天正19年)4月21日に切腹を命じられ、その首は一条戻橋で梟首されました。なお千利休は草庵風の茶室を完成し、朝鮮の茶碗や日常雑器を茶道具に取り入れ、簡素・清浄なわび茶を完成させました。
表千家は茶道流派のひとつで、裏千家・武者小路千家とともに三千家に数えられています。表千家は千利休による千家流茶道の本家であり、千利休が建てた茶室・不審庵を受け継いだ千利休の孫・千宗旦の三男・江岑宗左に始まります。不審庵は元々大徳寺の門前に建てられ、その後度々焼失し、1914年(大正3年)に現在の不審庵が再建されました。
表千家7世・如心斎は1705年(宝永2年)に表千家6世・覚々斎の長男として生まれました。家元制度の基礎を築き、七事式を制定し、千利休以来の道具や記録類を整理し、千家茶道中興の祖とも言われています。なお如心斎は1751年(寛延4年)に亡くなりました。
表千家6世・覚々斎は1678年(延宝6年)に久田宗全(ひさだそうぜん)の子として生まれ、表千家5世・随流斎(ずいりゅうさい)の養子となって家元を継承しました。覚々斎が仕えた徳川頼方は、徳川8代将軍吉宗となった。3人の子供は如心斎が表千家7世、竺叟宗乾(ちくそうそうけん)が裏千家7世、一燈宗室(いっとうそうしつ)が裏千家8世になりました。なお覚々斎は1730年(享保15年)に亡くなりました。
●聚光院茶室は切妻造(きりづまづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
聚光院

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