聚光院本堂・聚光院見どころ(修学旅行・観光)

聚光院本堂(方丈)

●聚光院本堂(方丈)は1974年(昭和49年)5月21日に国の重要文化財に指定されました。
●聚光院本堂(方丈)は安土桃山時代の1583年(天正11年)に建立されました。本堂にはかつて狩野松栄・狩野永徳父子が描いた障壁画(国宝)が飾られていたが、現在は保存の為に京都国立博物館に寄託され、複製(レプリカ)が飾られています。
狩野松栄は戦国時代(室町時代後期)の1519年(永正16年)に狩野元信(かのうもとのぶ)の三男として生まれました。いずれも兄である狩野宗信(かのうむねのぶ)、狩野秀頼(かのうひでより)が早世したことから狩野家の家督を継ぎました。1553年(天文22年)に父・狩野元信とともに石山本願寺(いしやまほんがんじ)の障壁画制作に参加し、1563年(永禄6年)に大徳寺(だいとくじ)に「仏涅槃図(重要文化財)」を制作して寄進しました。1566年(永禄9年)に長男・狩野永徳(かのうえいとく)とともに河内国の戦国大名・三好義継(みよしよしつぐ)が創建した大徳寺の塔頭・聚光院(じゅこういん)の障壁画(国宝)を制作し、1569年(永禄12年)に厳島神社(いつくしまじんじゃ)に「羅城門鬼之図扁額」を制作して奉納しました。また「益田元祥像(重要文化財)」なども制作しました。狩野松栄は温和な画風で、父・狩野元信や長男・狩野永徳の陰に隠れて目立たない存在でした。なお狩野松栄は桃山時代の1592年(天正20年)11月24日に亡くなりました。
狩野永徳は戦国時代(室町時代後期)の1543年(天文12年)2月16日に狩野松栄(かのうしょうえい)の長男として京都で生まれました。公卿・山科言継(やましなときつぐ)の日記「言継卿記」によると1552年(天文21年)に祖父・狩野元信(かのうもとのぶ)とともに室町幕府第13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)に正月参賀したと言われています。祖父・狩野元信から薫陶を受けたと言われています。1566年(永禄9年)に父・狩野松栄とともに河内国の戦国大名・三好義継(みよしよしつぐ)が創建した大徳寺の塔頭・聚光院(じゅこういん)の障壁画(国宝)を制作しました。五摂家の筆頭・近衞家(このえ)との関係が深く、1567年(永禄10年)~1568年(永禄11年)に公卿・近衛前久(このえさきひさ)邸の障壁画を描きました。その後織田信長(おだのぶなが)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)などに重用され、安土城(あづちじょう)・桃山城(ももやまじょう)・聚楽第(じゅらくだい)・大坂城(おおさかじょう)など障壁画の制作を指揮しました。1589年(天正17年)に第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の内裏の障壁画、1590年(天正18年)に八条宮家の障壁画を描きました。狩野永徳は祖父・狩野元信以来の装飾的な画風を発展させ、豪壮華麗な金地極彩色の画風を確立し、狩野派全盛の基礎を築きました。なお狩野永徳は1590年(天正18年)10月12日に亡くなりました。
●聚光院本堂(方丈)は桁行約15.0メートル・梁間約11.9メートルで、入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。本堂は安土桃山時代を代表する方丈建築とも言われています。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
聚光院

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