海住山寺五重塔・海住山寺見所(修学旅行・観光)

海住山寺五重塔

●海住山寺五重塔は1898年(明治31年)12月28日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)3月29日に国宝に指定されました。
●海住山寺五重塔は鎌倉時代前期の1214年(建保2年)に建立されました。貞慶(じょうけい)が仏舎利(ぶっしゃり)を安置する為に建立を始めたが、1213年(建暦3年)に貞慶が亡くなり、1214年(建保2年)に五重塔が完成しました。貞慶の弟子である慈心上人(じしんしょうにん)・覚真(かくしん・藤原長房(ふじわらのながふさ))が仏舎利七粒を五重塔に安置したと言われています。1962年(昭和38年)に解体修理が行われ、かつて裳階(もこし)があったことが分かり、裳階が復元されました。五重塔は総高約17.7メートルで、総高16メートル強の奈良・室生寺(むろうじ)の五重塔(国宝)に次いで小さい五重塔です。(屋外に建立され、国宝・重要文化財に指定されていもの)五重塔は全体的に細身で、四天柱(してんばしら)はあるが、心柱(しんばしら)がない構造になっています。初重は四天柱の間に東西南北4面に両開扉を設けた厨子(ずし)風に造られ、8枚の扉に梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)などの天部(てんぶ)や比丘(びく)が描かれています。
一般的に五重塔は仏教の祖・お釈迦さまの遺骨(仏舎利(ぶしゃり))を納める仏塔です。仏塔は紀元前3世紀頃から造られるようになったお釈迦さまの遺骨(仏舎利)を祀る饅頭形(半球形)のストゥーパが起源とも言われています。ストゥーパはインド(天竺(てんじく))から中国に伝えられると高層の楼閣建築形式になり、朝鮮半島から日本に伝わったと言われています。現在、7世紀後半の飛鳥時代に建立された法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔が日本最古の五重塔です。なお五重塔は外観が基壇・塔身・相輪(そうりん)からなり、五重の屋根が下から地(基礎)・水(塔身)・火(笠)・風(請花(うけばな))・空(宝珠(ほうじゅ))を表し、それぞれが5つの世界(五大思想)を示し、仏教的な宇宙観を表しています。
貞慶は1155年(久寿2年)6月22日に祖父・信西(藤原通憲)の孫、父・藤原貞憲の子として生まれました。信西は1156年(保元元年)の保元の乱で権勢を得たが、1160年(平治元年)の平治の乱で自害させられ、父・藤原貞憲は土佐に配流されたことから1162年(応保2年)の8歳の時に奈良・興福寺に入り、1165年(永万元年)の11歳の時に叔父で、興福寺第45代別当・覚憲に師事して法相・律を学びました。1186年(文治2年)に浄土宗の宗祖・法然上人を招請して京都・勝林院で行われた大原問答に出席しました。若くして維摩会・最勝会の講師になり、学僧として期待されたが、僧侶の堕落を嫌って、1193年(建久4年)に弥勒信仰の聖地である京都・笠置寺に隠遁して寺観を整備しました。1205年(元久2年)に「興福寺奏状」を起草し、法然上人の専修念仏を批判しました。1208年(承元2年)に海住山寺に移り、1213年(建暦3年)2月24日に亡くなりました。貞慶は「唯識論同学鈔」・「心要鈔」・「愚迷発心集」など記しました。
●海住山寺五重塔は三間(さんげん)五重塔婆(ごじゅうとうば)で、本瓦葺(ほんがわらぶき)です。五重塔は初重に銅板葺(どうばんぶき)の裳階(もこし)付きです。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。
裳階は仏堂などの本来の屋根の下に付けた差し掛けの屋根です。屋根が二重になるので2階建てと間違われたりします。白鳳時代に建立された法隆寺の金堂と五重塔が日本最古の例です。なお裳階は雨打 (ゆた) ・雪打 (ゆた) とも言われています。
海住山寺見どころ

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