海住山寺文殊堂・海住山寺見所(修学旅行・観光)

海住山寺文殊堂

●海住山寺文殊堂は1901年(明治34年)3月27日に国の重要文化財に指定されました。
●海住山寺文殊堂は鎌倉時代前期の1225年(元仁2年)の貞慶13回忌に経蔵として建立されたとも言われています。経蔵には本尊・文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が祀られ、経蔵としての機能を失った後も本尊・文殊菩薩が祀られたことから文殊堂と言われるようになったと言われています。
貞慶は1155年(久寿2年)6月22日に祖父・信西(しんぜい・藤原通憲(ふじわらのみちのり))の孫、父・藤原貞憲(ふじわらのさだのり)の子として生まれました。信西は1156年(保元元年)の保元の乱(ほうげんのらん)で権勢を得たが、1160年(平治元年)の平治の乱(へいじのらん)で自害させられ、父・藤原貞憲は土佐に配流されたことから1162年(応保2年)の8歳の時に奈良・興福寺(こうふくじ)に入り、1165年(永万元年)の11歳の時に叔父で、興福寺第45代別当・覚憲(かくけん)に師事して法相(ほっそう)・律を学びました。1186年(文治2年)に浄土宗(じょうどしゅう)の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)を招請して京都・勝林院(しょうりんいん)で行われた大原問答(おおはらもんどう)に出席しました。若くして維摩会(ゆいまえ)・最勝会(さいしょうえ)の講師になり、学僧として期待されたが、僧侶の堕落を嫌って、1193年(建久4年)に弥勒信仰(みろくしんこう)の聖地である京都・笠置寺(かさぎでら)に隠遁して寺観を整備しました。1205年(元久2年)に「興福寺奏状(こうふくじそうじょう)」を起草し、法然上人の専修念仏(せんじゅねんぶつ)を批判しました。1208年(承元2年)に海住山寺に移り、1213年(建暦3年)2月24日に亡くなりました。貞慶は「唯識論同学鈔(ゆいしきろんどうがくしょう)」・「心要鈔(しんようしょう)」・「愚迷発心集(ぐめいほっしんしゅう)」など記しました。
文殊菩薩は菩薩の一尊です。文殊菩薩は一般的に普賢菩薩(ふげんぼさつ)とともに釈迦如来(しゃかにょらい)の脇侍(きょうじ)とされています。文殊菩薩は中尊(ちゅうぞん)の釈迦如来・普賢菩薩とともに釈迦三尊とも言われています。文殊菩薩は智慧(ちえ)を司り、「三人寄れば文殊の智恵」ということわざの由来になっています。また文殊菩薩は般若波羅蜜(はんにゃはらみった)を説き、「般若経(はんにゃ)」を編集したとも言われています。「華厳経(けごんきょう)」では東方清涼山(しょうりょうざん)に住むとされ、中国・五台山(ごだいさん)の清涼寺が霊地にあたるとされています。文殊菩薩像は獅子(しし)の背の蓮華座(れんげざ)に結跏趺坐(けっかふざ)し、右手に智慧を象徴する利剣(りけん)、左手に経典を乗せた青蓮華(しょうれんげ)を持っています。
一般的に経蔵は寺院で「一切経」などの経典を納める蔵です。経蔵は経堂・経楼とも言われています。ちなみに「一切経」は仏教の経典を総集したものです。「一切経」は経蔵(きょうぞう・仏の教説集)・律蔵(りつぞう・仏弟子の生活規範)・論蔵(ろんぞう・インド仏教学者による経の解釈)の三蔵(さんぞう)を中心にそれらの注釈書などを加えたものです。
●海住山寺文殊堂は桁行三間・梁間二間で、寄棟造(よせむねづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。
海住山寺見どころ

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