上賀茂神社忌子殿・上賀茂神社見どころ

上賀茂神社忌子殿

●上賀茂神社忌子殿は1901年(明治34年)8月2日に国の重要文化財に指定されました。
●上賀茂神社忌子殿は江戸時代前期の1628年(寛永5年)頃に造営されました。忌子殿の「忌子」は賀茂氏(かもうじ)から選ばれた巫女(みこ)を意味し、巫女は葵祭に奉仕する斎王(さいおう)が勤めていた賀茂斎院に奉仕していました。
賀茂氏は初代・神武天皇が東征した際に八咫烏(やたがらす)として先導した賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の後裔と言われています。賀茂氏は賀茂県主(かもあがたぬし)姓を賜って山城一円を治め、代々賀茂神社に神職として奉仕しました。平安時代初期頃に上賀茂神社・下鴨神社の祠官家(しかんけ)に分かれ、代々両社の祢宜(ねぎ)を務めました。上賀茂神社の祠官家には松下家・鳥居大路家・林家・森家・梅辻家・富野家・岡本家などがあり、下鴨神社の祠官家に泉亭家・梨木家・広庭家・滋岡家・鴨脚家などがあります。
賀茂斎院はかつて葵祭に奉仕する斎王が勤めていた場所です。斎王(斎院(さいいん))はかつて天皇の娘である未婚の内親王(ないしんのう)または女王(じょうおう)から選ばれました。ちなみに斎王は斎皇女(いつきのみこ)とも言われました。また内親王は斎内親王、女王は斎女王とも言われました。賀茂斎院は平安時代初期の810年(大同5年)から始まったと言われています。第52代・嵯峨天皇は兄・平城上皇(第51代・平城天皇)と皇位や平城京再遷都などを巡って対立し、賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)の祭神・賀茂大神に皇女を賀茂社の神迎えの儀式に奉仕する阿礼少女(あれおとめ)に捧げると祈願し、810年(大同5年)の薬子の変(くすこのへん)で勝利したことから嵯峨天皇の第8皇女・有智子内親王(うちこないしんのう)が初代斎王になりました。その後1212年(建暦2年)に第82代・後鳥羽天皇の皇女・礼子内親王(いやこないしんのう)が退下し、1221年(承久3年)の承久の乱(じょうきゅうのらん)などにより、約400年間続いた賀茂斎院(斎院制度)は廃絶しました。なお賀茂斎院は地名から紫野斎院・紫野院とも言われていました。
●上賀茂神社忌子殿は桁行四間・梁間三間で、入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
上賀茂神社見どころ

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