上御霊神社歴史-修学旅行・観光ポイント
上御霊神社の時代別年表と重要人物
上御霊神社歴史を簡単にマトメてポイント解説します。上御霊神社は794年(延暦13年)に第50代・桓武天皇による平安京遷都の際、桓武天皇が崇道天皇(早良親王)を平安京の守り神として祀ったのが起源と言われています。なお上御霊神社歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。
【前史(早良親王)】
★上御霊神社が建立されている場所には平安京遷都以前(飛鳥時代~奈良時代)から出雲氏の氏寺・上出雲寺(かみいずもでら)が建立されていました。上御霊神社は上出雲寺の鎮守社であったとも言われています。
★早良親王は750年(天平勝宝2年)頃に第49代・光仁天皇(こうにんてんのう)と高野新笠(たかののにいがさ)の第2皇子として生まれました。同母兄弟には姉の能登内親王(のとのひめみこ)、兄の第50代・桓武天皇(かんむてんのう)がいます。761年(天平宝字5年)に出家して親王禅師(しんのうぜんじ)と言われ、東大寺(とうだいじ)開山・良弁(ろうべん)の後継者と言われていました。781年(天応元年)に姉が亡くなり、同年4月に父が病気を理由に譲位し、兄の桓武天皇に即位すると父の勧めで還俗して立太子(皇太弟)されたが、同年12月に父が崩御しました。ちなみに兄には774年(宝亀5年)に第51代・平城天皇(へいぜいてんのう)となる安殿親王(あてしんのう)が生まれていました。785年(延暦4年)に長岡京(ながおかきょう)で、兄の寵臣で、造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺され、暗殺犯とされる大伴竹良(おおともたけら)らが捕縛され、それに連座して皇太子を廃され、長岡京市・乙訓寺(おとくにでら)に幽閉されました。その後無実を訴える為に十余日絶食し、785年(延暦4年)に淡路国に配流される途中の河内国高瀬橋付近(大阪府守口市)で憤死し、遺骸は淡路国に運ばれて葬られました。その後皇太子・安殿親王や桓武天皇の皇后など皇族や貴族が病気になり、疫病の流行や洪水などの災害が起こり、早良親王の祟りと恐れられ、度々鎮魂の儀式が行われました。
【上御霊神社創建(起源・由来)】
★上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は794年(延暦13年)5月に第50代・桓武天皇による平安京遷都の際、桓武天皇が崇道天皇(すどうてんのう・早良親王(さわらしんのう))を平安京の守り神として祀ったのが起源と言われています。その後井上大皇后(いのえのおおひきさき)・他戸親王(おさべしんのう)・藤原大夫人(ふじわらのたいふじん・藤原吉子(ふじわらのよしこ))・橘大夫(たちばなのたいぶ・橘逸勢(たちばなのはやなり))・文大夫(ぶんのたいぶ・文屋宮田麿(ふんやのみやたまろ))・火雷神(からいしん)・吉備大臣(きびのおとと・吉備聖霊)を合祀しました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
★863年(貞観5年)5月20日に宮中の庭・禁苑だった神泉苑(しんせんえん)で、悪疫退散の御霊会(ごりょうえ)が勅命で行われました。御霊は崇道天皇(早良親王)・伊予親王(いよしんのう)・藤原夫人(藤原吉子)・観察使(藤原仲成(ふじわらのなかなり))・橘逸勢・文屋宮田麿の六所御霊でした。伊予親王・観察使(藤原仲成)が井上大皇后・他戸親王に変わり、火雷神・吉備大臣が追加され、上御霊神社の祭神になりました。ちなみにこの時の御霊会が上御霊神社の祭礼である御霊祭(ごりょうまつり)の起源とも言われています。なお下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)は863年(貞観5年)に神泉苑で行われた御霊会が起源と言われ、吉備聖霊・崇道天皇(早良親王)・伊予親王(桓武天皇の皇子)・藤原大夫人(藤原吉子)・藤大夫(藤原広嗣)・橘大夫(橘逸勢)・文大夫(文屋宮田麻呂)を祀っています。
★平安時代に上御霊神社は上出雲寺御霊堂、下御霊神社は下出雲寺御霊堂と称しました。
★平安時代後期に上御霊神社が荒廃したと言われています。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
★1384年(元中元年・至徳元年)に神階が最高位の正一位に昇叙しました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
★1467年(文正2年)1月18日に畠山政長(はたけやままさなが)と畠山義就(はたけやまよしひろ)の私闘・御霊合戦が行われ、上御霊神社が応仁の乱の勃発地とされています。失脚した畠山政長が上御霊神社の境内の森に布陣し、畠山義就が攻め寄せて御霊合戦が始まり、応仁の乱の前哨戦になりました。なお応仁の乱は室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の継嗣問題と畠山氏・斯波氏の家督争いが原因で、細川勝元(ほそかわかつもと)を総大将とする東軍と山名宗全(やまなそうぜん・山名持豊(やまなもちとよ))を総大将とする西軍に分かれ、1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)までの11年間にわたって戦われました。
★1478年(文明10年)に社殿が焼失し、その後足利氏が再建したとも言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
★天正年間(1573年~1592年)に社殿修造の際、内侍所仮殿を賜りました。1585年(天正13年)に社殿が建立されたとも言われています。
★1595年(文禄4年)に第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)が神輿を寄進しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
★1600年(慶長5年)頃に第107代・後陽成天皇が御牛車を寄進しました。
★1619年(元和5年)に第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が神輿を寄進しました。
★1623年(元和9年)頃に伏見城から四脚門(南門)が移築されたと言われています。
★1690年(元禄3年)に俳諧師(はいかいし)・松尾芭蕉(まつおばしょう)とその弟子・向井去来(むかいきょらい)らが上御霊神社を参詣したと言われています。境内に松尾芭蕉句碑「半日は 神を友にや 年忘れ」が建立されています。
★宝永年間(1704年~1710年)・享保年間(1716年~1735年)に社殿修造の際、内侍所仮殿を賜りました。
★1723年(享保8年)・1729年(享保14年)に第112代・霊元天皇(れいげんてんのう)が上御霊神社に行幸しました。
★1733年(享保18年)に内裏賢所御殿を賜り、本殿が建立されました。
★宝暦年間(1751年~1764年)に内裏賢所権殿を賜り、絵馬所が建立されました。
★寛政年間(1789年~1801年)に楼門(西門)が再建されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
★明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、観音堂・鐘堂・鬼門の疫伏社などが撤去されました。
★1871年(明治4年)以降に御霊祭の御所巡行が途絶えました。その後2009年(平成21年)・2019年(平成31年)に御霊祭の御所巡行が復活しました。
★1877年(明治10年)に貴船神社が神輿を寄進しました。
★1968年(昭和43年)に本殿が焼失し、1970年(昭和45年)に本殿が復元されました。
【第50代・桓武天皇:上御霊神社創建】
第50代・桓武天皇は奈良時代の737年(天平9年)に第49代・光仁天皇と高野新笠の第1皇子として生まれました。母が百済系渡来人氏族であったことから官僚として大学頭・侍従に任じられ、770年(宝亀元年)に父が第49代・光仁天皇に即位すると親王宣下とともに四品が授けられました。772年(宝亀3年)に光仁天皇の皇后・井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、その後異母弟である皇太子・他戸親王も皇太子を廃されると翌773年(宝亀4年)に皇太子になりました。781年(天応元年)に父から譲位され、45歳で桓武天皇に即位しました。奈良時代の仏教政治の弊害を除く為に僧侶の不法を取り締まり、784年(延暦3年)に長岡京の遷都、794年(延暦13年)に平安京の遷都を行って律令国家としての強化・拡大を図りました。天台宗の宗祖である伝教大師・最澄、真言宗の宗祖である弘法大師・空海を重用して平安仏教の確立にも尽力しました。また奥羽の蝦夷平定の為に坂上田村麻呂を将軍として遠征させ、地方行政の整備なども行いました。なお第50代・桓武天皇は806年(延暦25年)に崩御しました。
【上御霊神社歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・上御霊神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ