哲学の道と橋本関雪・関雪桜
哲学の道と橋本関雪・関雪桜
哲学の道では北端近くに橋本関雪が住宅を構えて住んでいました。橋本関雪は1921年(大正10年)に京都に対する恩返しの為、妻・よねとともに300本の染井吉野の苗木を京都市に寄贈し、銀閣寺道交差点から洗心橋付近に植樹されました。
【哲学の道桜見ごろ(例年時期)・2024年開花満開予想】
哲学の道の桜見ごろは例年4月上旬頃です。ただ桜の開花状況や見ごろ(満開)はその年の気候などによって多少前後することがあります。なお2025年1月下旬頃から京都の桜開花・桜満開・桜見ごろ情報を発信します。
哲学の道桜見ごろ
【哲学の道 歴史・簡単概要】
哲学の道は琵琶湖疏水分線沿いで、北側の銀閣寺道交差点付近の浄土寺橋から南側の若王子神社付近の若王子橋を結ぶ延長約2キロの小道です。琵琶湖疏水は京都府知事・北垣国道が京都近代化政策の一環として計画し、1890年(明治23年)に滋賀県大津市三保ヶ崎から鴨川までの第1疏水と蹴上から分岐する疏水分線が完成し、1912年(明治45年)に第2疏水が完成しました。哲学の道は1890年(明治23年)に完成した琵琶湖疏水分線の管理用道路が起源です。
【哲学の道と橋本関雪・関雪桜】
哲学の道では北端近くの京都市左京区銀閣寺前に日本画家・橋本関雪(はしもとかんせつ)が住宅を構えて住んでいました。橋本関雪は日本画家として大成し、関西の日本画壇で重きをなすようになり、1921年(大正10年)に京都に対する恩返しの為、妻・よね(米子)とともに300本の染井吉野(ソメイヨシノ)の苗木を京都市に寄贈し、銀閣寺道交差点から洗心橋(せんしんばし)付近に植樹されました。橋本関雪と妻・よねは1932年(昭和7年)にも150本の染井吉野を寄贈しました。桜の寄贈・植樹は妻・よねが発案したと言われています。橋本関雪と妻・よねは哲学の道が京都を代表する桜名所となる起源になり、哲学の道の桜は関雪桜と言われています。ちなみに橋本関雪の住宅・白沙村荘(はくさそんそう)は1914年(大正3年)頃から埋め立てが開始され、1916年(大正5年)に主家部分・画室部分、1932年(昭和7年)に茶室部分、1938年(昭和13年)に庭園西部分が完成したと言われています。その後2014年(平成26年)に橋本関雪記念館が開設され、1階では橋本関雪の作品・蒐集品などが展示公開され、展望テラスを備えた2階では国内外の現代作家の美術作品が展示公開されています。なお2009年(平成21年)に橋本関雪と妻・よねから寄贈された関雪桜を後世に受け継ぐ為、接ぎ木でクローン苗木を増やす作業が行われました。推定樹齢80~90年の関雪桜2本から小枝が切り取られ、小枝は森林総合研究所育種場(岡山県)に運ばれ、大島桜(おおしまざくら)の台木に接ぎ木され、関雪桜と同じ遺伝子を持ったクローンとして育てられ、2012年(平成24年)に哲学の道に植樹されます。
【橋本関雪 哲学の道】
橋本関雪は1883年(明治16年)11月10日に橋本海関とフジの子として兵庫県神戸市に生まれました。橋本家は楠木氏一門の橋本八郎正員の後裔で、父・橋本海関は明石藩の学問所詰儒学者を務めていました。子供の頃から父・橋本海関から漢学を学び、1895年(明治28年)から日本画家・片岡公曠(かたおかこうこう)に四条派の画風を学び、1903年(明治36年)から日本画家・竹内栖鳳(たけうちせいほう)を師事して学びました。1913年(大正2年)・1914年(大正3年)に文展で二等賞を受賞し、1916年(大正5年)・1917年(大正6年)に文展で特選を受賞しました。その後帝展審査員を務め、1934年(昭和9年)に帝室技芸員に選ばれました。1929年(昭和4年)に帝国美術院改革に伴って会員に選ばれたが、1936年(昭和11年)の帝国美術院改革案に反対して横山大観(よこやまたいかん)らとともに会員を辞し、1937年(昭和12年)に帝国美術院が改組して帝国芸術院が発足すると会員になりました。1939年(昭和14年)に陸軍美術協会に参加し、戦後に戦争画がGHQに没収されました。橋本関雪は「秋圃」・「秋桜老猿」・「遅日」・「玄猿」・「寒山拾得」・「倪雲林」・「香妃戎装」・「木蘭詩」・「長恨歌」などを描き、、建仁寺の襖絵60面も制作しました。ちなみに著書には「南画への道程」・「白沙村人随筆」などがあります。橋本関雪は呉春(松村月渓)を祖とする京都画壇・四条派の画風に南画などの技法を加味した画風を確立しました。なお橋本関雪は1945年(昭和20年)2月26日に狭心症で京都市左京区銀閣寺前の自宅で亡くなりました。
【哲学の道と橋本関雪・関雪桜】
*京都には多くの桜名所があり、その桜見ごろを下記リンクから確認できます。
京都桜見ごろ2025(清水寺・哲学の道・原谷苑・・・)