笠置寺歴史-修学旅行・観光ポイント

笠置寺

笠置寺歴史の簡単まとめ

笠置寺歴史を簡単にマトメてポイント解説します。笠置寺が建立されている笠置山は弥生時代に巨石を神として崇拝する磐座信仰の聖地になったと言われています。笠置寺は682年(白鳳11年)に大海人皇子が創建したとも言われています。なお笠置寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(蓮台野)】

★笠置寺が建立されている標高289メートルの笠置山は古くから信仰の山とされ、弥生時代(前10世紀頃~3世紀中期頃)に巨石を神として崇拝する磐座(いわくら)信仰の聖地だったと言われています。大岩石の前から弥生時代の有樋式石剣が発見されています。なお笠置山には弥勒石(みろくいし)・虚空蔵石(こくぞういし)・薬師石(やくしいし)などの石仏や名切石・太鼓石などの名石・巨石・奇岩・怪石が点在しています。

【笠置寺創建(起源・由来)】

★笠置寺は「笠置寺縁起(えんぎ)」によると飛鳥時代後期の682年(白鳳11年)に第40代・天武天皇(てんむてんのう)となる大海人皇子(おおあまのおうじ)が創建したとも言われています。
★笠置寺は「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」によると664年(天智天皇3年)に弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)が刻まれたのが起源とも言われています。第38代・天智天皇(てんじてんのう)の子で、第39代・弘文天皇(こうぶんてんのう)となる大友皇子(おおとものおうじ)が日馬に乗って鹿狩りをしていた際、笠置山中の断崖絶壁で立ち往生し、鹿は断崖絶壁を越えて逃げ去り、馬は身動きができなくなりました。大友皇子は山の神に祈り、助かれば、断崖絶壁に弥勒仏を刻もうと誓願して助かりました。その後664年(天智天皇3年)に誓願どおりに弥勒仏を刻もうとしたが、あまりの断崖絶壁で上手くいかず、そこに天人が現れて弥勒像を刻んだと言われています。
★笠置寺は東大寺権別当(ごんべっとう)・実忠(じっちゅう)とその師で、東大寺初代別当・良弁僧正(ろうべんそうじょう)が笠置山の大岩石に仏像を刻んだのが起源とも言われています。その後その仏像を中心として笠置山全体が一大修験行場として栄えました。なお「東大寺要録」の879年(元慶元年)条に「笠置寺八講始行」と記されているのが、笠置寺の文献上の初見で、笠置山の行場は修験道(しゅげんどう)の祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が開山したとされています。

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【奈良時代(710年頃~794年頃)の出来事・事件】

★743年(天平15年)に東大寺初代別当・良弁僧正が東大寺大仏殿建立の際、木材を伊賀(三重)・信楽(滋賀)から木津川(きづがわ)を経由して南都(奈良)に運ぶ為、笠置の龍穴(りゅうけつ・千手窟(せんじゅくつ))で千手の秘法を行って、大仏殿建立を成し遂げたと言われています。木津川の舟運を妨げていた河床の岩を掘削することができたと言われています。
★751年(天平勝宝3年)に良弁僧正の弟子・実忠が龍穴から弥勒の世界(兜率天(とそつてん))に入り、観音悔過法(かんのんけかほう)を学び、翌752年(天平勝宝4年)1月1日に正月堂を建立したと言われています。観音悔過法が東大寺で毎年3月に行われているお水取り(修二会・お松明)の起源になったと言われています。

【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事・事件】

★818年(弘仁9年)に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)の前で虚空蔵求聞持法(ぐもんじほう)を行ったと言われています。
★898年(寛平10年)に第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)が笠置寺を参詣したと言われています。
★987年(永延元年)に円融上皇(第64代・円融天皇(えんゆうてんのう))、花山上皇(第64代・花山天皇(かざんてんのう))が笠置寺を参詣したと言われています。
★1007年(寛弘4年)に藤原道長(ふじわらのみちなが)が笠置寺を参詣したと言われています。
★平安時代後期に末法思想が広がると未来仏・弥勒菩薩への信仰の高まり、皇族・貴族などが笠置寺を多く参詣しました。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事・事件】

★1191年(建久2年)に信西(しんぜい・藤原通憲(ふじわらのみちのり))の孫・解脱上人(げだつしょうにん・藤原貞慶(ふじわらのじょうけい))が笠置寺に入寺し、弥勒信仰によって笠置寺が隆盛を極めたと言われています。伽藍が整備され、塔頭(たっちゅう)は兜率天の内院四十九院に因んで、49院あったと言われています。
★1194年(建久5年)に「大般若経(だいはんにゃきょう)」を安置する六角形の般若台が建立されたと言われています。
★1196年(建久7年)に東大寺大仏再興の大勧進・俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が梵鐘を鋳造し、「宋版大般若経」が施入されたと言われています。
★1198年(建久9年)に木造の十三重塔が建立されたと言われています。
★1204年(元久元年)に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)が礼堂の再建の為に砂金を寄進したと言われています。
★1230年(寛喜2年)に東大寺の学僧・宗性が入寺しました。
★1331年(元弘元年)に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府打倒を図って元弘の乱(げんこうのらん)を起こし、笠置山に仮の御所・行在所(あんざいしょ)が置かれたこともあり、笠置寺は49の塔頭を含む全山が焼失しました。弥勒磨崖仏も火を浴び、石の表面が剥離したと言われています。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の出来事・事件】

★1339年(暦応2年)に笠置寺が再興されたが、1355年(文和4年)に再び焼失しました。
★1381年(永徳元年)に本堂が再建されたが、1398年(応永5年)に焼失したと言われています。その後も笠置寺は焼失と再建を繰り返したと言われています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事・事件】

★1398年(応永5年)に伽藍が焼失し、文明年間(1469年~1486年)に正月堂・毘沙門堂・大師堂などが再建されたと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事・事件】

★慶安年間(1648年~1652年)に伊勢国津藩主・藤堂高次(とうどうたかつぐ)が正月堂(本堂)を再建しました。
★江戸時代中期に笠置寺が衰退したと言われています。

【明治時代以降(1868年頃~)の出来事・事件】

★明治時代初期に笠置寺が無住になったが、1876年(明治9年)に再興されました。
★1957年(昭和32年)に正月堂(本堂)が改修されました。
★2004年(平成16年)に毘沙門堂が塔頭・多聞院を用いて再建されました。
★2016年(平成28年)に春日明神社が奈良市の御蓋山山頂に祀られている春日大社の摂社・本宮神社(ほんぐうじんじゃ)の社殿を移築して再興されました。

【第40代・天武天皇:笠置寺開基】

第40代・天武天皇は第34代・舒明天皇と第35代・皇極天皇(第37代・斉明天皇)の皇子として生まれました。若い頃から兄・中大兄皇子(第38代・天智天皇)と行動を共にし、いずれも兄の娘であるう野讃良皇女(第41代・持統天皇)・大田皇女・大江皇女・新田部皇女を妻としました。668年(天智天皇7年)に兄が天智天皇に即位すると皇太弟として政治を助けました。その後天智天皇の第1皇子・大友皇子が成人すると皇嗣問題が起こって対立し、671年(天智天皇10年)に大友皇子が太政大臣になると政権から疎外されました。同年秋に兄が病に臥したことから後事を託そうとしたが、陰謀のあることを知り、剃髪して吉野に引き籠りました。同年末に兄が近江大津宮で崩御し、その後大友皇子が第39代・弘文天皇に即位したと言われています。翌672年(天武天皇元年)の壬申の乱で少数の舎人らと挙兵し、近江大津宮に攻め入り、弘文天皇が自害しました。673年(天武天皇2年)に飛鳥浄御原宮で即位し、う野讃良皇女(持統天皇)を皇后としました。天武天皇は八色の姓で氏姓制度を再編したり、律令制の導入に向けて制度改革を進めたりしました。なお第40代・天武天皇は686年(朱鳥元年)に崩御しました。

【笠置寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・笠置寺(アクセス・歴史・・・)

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