舟橋秀賢(ふなはしひでかた)の「慶長日件録」と五山送り火
舟橋秀賢の「慶長日件録」と五山送り火
五山送り火は古くから行われていると言われているが、いつから始まったかは明確ではありません。五山送り火は江戸時代(1603年~1868年)前期の公家・舟橋秀賢の日記「慶長日件録」の1603年(慶長8年)7月16日の条が文献上の初見と言われています。
【五山送り火2025 日程】
五山送り火2025は2025年(令和7年)8月16日(土曜日)20:00から5分間隔で順次点火されます。なお五山送り火は原則雨天決行だが、気象条件によって点火時間が変更になる場合もあります。
五山送り火2025
【五山送り火 歴史・簡単概要】
五山送り火(ござんのおくりび)はお盆(おぼん・盂蘭盆(うらぼん))にあの世(冥府(めいふ))から帰ってきたお精霊さん(おしょらいさん)をあの世に送り返す仏教的行事です。五山送り火は宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」とも言われることがあります。五山送り火はいつ始まったかは明確ではありません。一説には多くの灯明を灯して仏神を供養する万灯会(まんどうえ)が山の山腹で行われるようになり、お盆の精霊の送り火(門火(かどび))になったとも言われています。
【舟橋秀賢(ふなはしひでかた)の「慶長日件録(けいちょうにっけんろく)」】
五山送り火は古くから行われていると言われているが、いつから始まったかは明確ではありません。五山送り火は平安時代(794年~1185年)から室町時代(1336年~1573年)に始まったとも言われています。五山送り火は安土桃山時代(1573年~1603年)から江戸時代(1603年~1868年)前期の公家・舟橋秀賢の日記「慶長日件録」の1603年(慶長8年)7月16日の条に「晩に及び冷泉亭に行く、山々灯を焼く、見物に東河原に出でおわんぬ」と記されているのが文献上の初見と言われています。ただ大文字・妙法・船形・左大文字・鳥居形など具体的な名称がなく、複数の山々に火が灯されたことが分かるが、江戸時代初期に舟橋秀賢が何を見たのか分らないとも言われています。そして「慶長日件録」の翌1604年(慶長9年)7月16日の条に「夜に入り山科、冷泉に同心せしめ、万灯籠見物ニ東河原出おわんぬ、歸路山科亭へ立寄圍碁」と記され、東河原で万燈籠(まんとうろう)を見物したことが記されていることから舟橋秀賢は万燈籠を見ていたとも言われています。万燈籠は多くの火を灯して精霊(しょうろう)を供養するものと言われています。ちなみに万灯(万燈)は仏(ほとけ)・菩薩(ぼさつ)に多くの灯籠に灯明を灯して供える法会で、飛鳥時代後期の651年(白雉2年)に宮廷で行われたのが初例とされています。なお冷泉亭が京都御苑北側で、京都市上京区今出川通烏丸東入玄武町599番地にある現在の冷泉家住宅(れいぜいけじゅうたく)ならば、今出川通(いまでがわどおり)を東に向かって、鴨川(賀茂川)の東河原で東山から北山の万燈籠を見たのかもしれません。
●「慶長日件録」は明経博士・舟橋秀賢が記した日記です。「慶長日件録」は1600年(慶長5年)から1613年(慶長18年)までの13年間が記されています。1603年(慶長8年)から5年間は完本だが、他の年は一部の月のみが残されています。「慶長日件録」は主に宮廷内の行事などが記されているが、駿府の徳川家康の情勢や京都の町の状況などが記されています。
●舟橋秀賢は安土桃山時代の1575年(天正3年)に大蔵卿・清原国賢(きよはらくにかた)の長男として生まれました。舟橋家は明経道(みょうぎょうどう)を家業とする清原氏の嫡流で、1601年(慶長6年)2月24日に姓名を高倉から舟橋と改名するように命じられました。舟橋家(清原家)は代々、明経道を以って宮中に仕え、押小路家(おしこうじけ・おしのこうじけ)とともに明経博士(みょうぎょうはかせ)・大外記(だいげき)を世襲しました。舟橋秀賢は1584年(天正12年)に蔵人左近将監(くろうどこんえのしょうげん)に任じられ、1588年(天正16年)に式部大丞(しきぶのたいじょう)に任じられました。1602年(慶長7年)2月に明経博士になり、1604年(慶長9年)8月に式部少輔(しきぶのしょう)に任じられ、従五位(じゅごい)に叙せられました。1613年(慶長18年)1月に従四位(じゅしい)に昇叙しました。舟橋秀賢は漢文・連歌など国文学に通じ、第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)、第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の侍読(じどく・じとう)を務めました。舟橋秀賢は活字印刷の技術を持ち、自ら「古文孝経」などを印刷しました。舟橋秀賢は下級の公家だったが、自らの才能を生かし、江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)などと交流を持ち、家康昵懇(じっこん)の公家衆に数えられました。なお舟橋秀賢は1614年(慶長19年)8月3日に亡くなりました。
【舟橋秀賢の「慶長日件録」と五山送り火 備考】
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