建仁寺風神雷神図・建仁寺見どころ(修学旅行)

建仁寺風神雷神図

●建仁寺風神雷神図は国宝です。
●建仁寺風神雷神図は元々豪商・打它公軌(うだきんのり)が建仁寺派の寺院・妙光寺(みょうこうじ)の再興を記念し、絵師・俵屋宗達(たわらやそうたつ)に製作を依頼したものです。江戸時代前期の1639年(寛永16年)頃に妙光寺に奉納され、その後妙光寺から建仁寺に寄贈されました。
豪商・打它公軌は越前(福井県)敦賀の豪商・糸屋彦次郎の子として生まれたとも言われています。家業を継がずに京都に出て、驚月庵に住しました。歌を大名・歌人である木下長嘯子(きのしたちょうしょうし・木下勝俊(きのした かつとし))、俳人・歌人である松永貞徳(まつながていとく)、公卿・歌人である中院通勝(なかのいんみちかつ)に学び、師・木下長嘯子の「挙白集(きょはくしゅう)」を編集しました。
絵師・俵屋宗達は戦国時代(室町時代後期)の1570年頃に京都の富裕な町衆に生まれたとも言われています。狩野永徳(かのうえいとく)の画法などを会得し、俵屋という屋号を持つ絵屋または扇屋を主宰し、自らも描きました。公卿・烏丸光広(くぎょうからすまみつひろ)、茶人・千少庵(せんのしょうあん)、書家・陶芸家・芸術家である本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)らと交友したと言われています。1602年(慶長7年)に福島正則(ふくしままさのり)の命による平家納経の修復に関わり、1630年(寛永7年)に第108代・後水尾天皇から屏風3双の制作を依頼されたとも言われています。1630年(寛永7年)に町の絵師として異例の法橋(ほっきょう)の位が与えられました。俵屋宗達は金銀泥を駆使した装飾性の強い斬新な画法が特徴で、尾形光琳(おがたこうりん)とともに並び称されました。俵屋宗達は伝統的な大和絵を独自の新しい感覚で復興させたも言われています。国宝には風神雷神図(建仁寺・京都国立博物館寄託)・蓮池水禽図(京都国立博物館)・源氏物語関屋及び澪標図(静嘉堂文庫)、重要文化財には養源院襖絵杉戸絵・西行法師行状絵詞(出光美術館など)・舞楽図屏風(醍醐寺)・芦鴨図衝立(醍醐寺)・扇面貼交屏風(醍醐寺)などがあります。なお俵屋宗達は1643年(寛永20年)頃に亡くなったとも言われています。
妙光寺は鎌倉時代後期の1285年(弘安8年)に内大臣・花山院師継(かざんいんもろつぐ)が長子・花山院忠季(かざんいんただとし)の死を悼んで、臨済宗(りんざいしゅう)の僧・心地覚心を開山として山荘を寺院に改め、花山院家の菩提寺にしたのが起源です。妙光寺の寺号は花山院忠季の法名・妙光に由来しています。その後大覚寺統の第90代・亀山天皇、第96代・後醍醐天皇、第97代・後村上天皇の勅願寺になりました。しかし応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって荒廃し、江戸時代に建仁寺295世・三江紹益(さんこうじょうえき)が京都の豪商・打它公軌(うだきんのり)らの支援で伽藍を再建したとも言われています。なお妙光寺は室町時代に京都十刹の第8位に選ばれました。
建仁寺見どころ

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