建仁寺方丈・建仁寺見どころ

建仁寺方丈

●建仁寺方丈は1898年(明治31年)12月28日に国の重要文化財に指定されました。
●建仁寺方丈は室町時代の1487年(長享元年)に広島・安国寺(あんこくじ)に建立され、安土桃山時代の1599年(慶長4年)に外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が移して建立しました。建仁寺方丈は桁行約27.6メートル・梁行20.8メートルで、入母屋造の銅板葺です。
安国寺は起源が明確ではありません。安国寺は奈良時代の僧・行基(ぎょうき)が創建したとも、本尊・薬師如来像の様式から平安時代後期には既に創建されていたとも言われています。室町時代前期に室町時代初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)と弟・足利直義(あしかがただよし)が日本六十余州に建立した安芸国安国寺になりました。また安芸国守護・武田氏の菩提寺としても繁栄しました。しかし戦国時代に兵火によって焼失し、武田氏も滅亡したことから毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が再興しました。その後1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍に組した安国寺恵瓊が斬首され、西軍の総大将・毛利輝元(もうりてるもと)が隠居させられ、毛利氏も転封になりました。その後福島正則(ふくしままさのり)が入国し、福島正則の祈祷僧・宥珍(ゆうちん)が安国寺に入って住持になり、禅宗から真言宗に改めました。福島氏改易後に浅野氏が入国し、浅野家歴代藩主の保護を受けました。1945年(昭和20年)8月6日の原爆投下で金堂の屋根の一部が吹き飛び、本堂の柱が1本中央から折れたが、倒壊は免れました。
安国寺恵瓊は戦国時代(室町時代後期)の1537年(天文6年)または1539年(天文8年)に安芸武田氏の一族として生まれたとも言われています。1541年(天文10年)に安芸武田氏が戦国大名・毛利元就(もうりもとなり)の攻撃で滅亡し、安芸国安国寺(不動院)で出家し、その後臨済宗東福寺派の大本山・東福寺(とうふくじ)の竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子になりました。竺雲恵心が毛利元就の子・毛利隆元(もうりたかもと)と親交があり、安国寺恵瓊も毛利氏の外交僧になりました。1574年(天正2年)に安芸国安国寺の住持になり、1582年(天正10年)の備中高松城の戦いで毛利隆元の子・毛利輝元(もうりてるもと)と関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の講和を成立させると豊臣秀吉の近臣になり、豊臣秀吉による1585年(天正13年)の四国征伐後に伊予国(愛媛県)和気郡が与えられ、豊臣大名の一員になりました。1592年(天正20年)~1593年(文禄2年)の文禄の役・1597年(慶長2年)~1598年(慶長3年)の慶長の役で戦闘に参加しました。1598年(慶長3年) に東福寺住持になり、1599年(慶長4年)に臨済宗建仁寺派の大本山・建仁寺(けんにんじ)の再興に尽力し、1600年(慶長5年)に南禅寺の住持になりました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで毛利輝元(もうりてるもと)を総大将とする西軍に組し、西軍が敗北すると西軍首脳陣の一人として、石田三成(いしだみつなり)・小西行長(こにしゆきなが)とともに六条河原で斬首されました。
一般的に方丈は1丈(約3メートル)四方の部屋を意味し、禅宗寺院の住持(じゅうじ・住職)や長老の居室を指します。方丈は大乗仏教の経典「維摩経(ゆいまきょう)」にインドの在家仏徒・維摩居士(ゆいまこじ)が神通力で1丈四方の部屋に文殊菩薩(もんじゅぼさつ)など8,000人の菩薩や仏弟子である500人の声聞(しょうもん)を招き入れたという故事に由来しています。そこから方丈に全宇宙が内在し、住職の居室を方丈というようになりました。方丈は堂頭(どうちょう)・堂上(どうじょう)・正堂(しょうどう)・函丈(かんじょう)とも言われています。なお「維摩経」は仏教伝来とともに伝わったとも言われ、聖徳太子(しょうとくたいし)の注釈書「維摩経義疏(三経義疏(さんぎょうぎしょ))」が残されています。
建仁寺見どころ

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