建仁寺織田信長供養塔・建仁寺見どころ

建仁寺織田信長供養塔

●建仁寺織田信長供養塔は庭園・大雄苑(だいおうえん)に建立されている七重石塔です。織田信長供養塔はかつて1582年(天正10年)に織田信長(おだのぶなが)の弟・織田有楽斎(おだうらくさい)が兄・織田信長追善の為に建立した十三重石塔だったと言われています。江戸時代に開山塔の南の溝の底に隠されていたとも言われているが、1898年(明治31年)に現在の場所に移されたとも言われています。
一般的に十三重石塔はお釈迦様の遺骨である仏舎利を収めた仏塔に由来すると言われています。仏塔には二重塔(多宝塔)・三重塔(最古の法起寺)・五重塔(最古の法隆寺)・七重塔・九重塔・十三重塔などがあり、原則的に奇数 (3・5・7・9・13) です。
織田有楽斎(織田長益(おだながます))は戦国時代(室町時代後期)の1547年(天文16年)に織田信秀(おだのぶひで)の11男として生まれました。兄・織田信長とは13歳離れています。1574年(天正2年)に尾張国知多郡を与えられ、大草城(おおくさじょう)を改修しました。その後兄・織田信長の長男・織田信忠(おだのぶただ)の旗下にあったとも言われています。1582年(天正10年)の本能寺の変(ほんのうじのへん)後に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕え、御伽衆(おとぎしゅう)になりました。また千利休(せんのりきゅう)に茶道を学び、高弟になって利休十哲(りきゅうじってつ)に数えられました。1590年(天正18年)に剃髪して有楽と号し、1594年(文禄3年)に関白・豊臣秀吉が前田利家(まえだとしいえ)邸を訪ねた際に室礼などを指導しました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)方に属し、大和国の3万2千石を与えられました。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で豊臣方の盟主に推されたが、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣に参加せず、京都に隠棲して茶の湯に専念しました。なお織田有楽斎は1622年(元和7年)1月24日に亡くなりました。
織田信長は戦国時代(室町時代後期)の1534年(天文3年)6月23日(旧暦5月12日)に戦国大名で、織田弾正忠家の当主・織田信秀(おだのぶひで)と継室・土田御前(どたごぜん)の嫡男として生まれました。1551年(天文20年)に父・織田信秀が亡くなると家督を継ぎ、尾張守護代の織田大和守家・織田伊勢守家を滅ぼし、弟・織田信行(おだのぶゆき)を排除して尾張一国を統一しました。1560年(永禄3年)に桶狭間の戦(おけはざまのたたかい)で駿河国の戦国大名・今川義元(いまがわよしもと)を敗死させ、1562年(永禄5年)に三河の領主・徳川家康(とくがわいえやす)と同盟を結び、1567年(永禄10年)に美濃国の戦国大名・斎藤龍興(さいとうたつおき)を滅ぼすと尾張国・美濃国の2カ国を領する戦国大名になりました。1568年(永禄11年)に室町幕府第15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、朝倉氏(あさくらし)・浅井氏(あざいし)を滅ぼし、1573年(天正元年)に足利義昭を河内に追放して室町幕府を滅ぼしました。1575年(天正3年)に長篠の戦い(ながしののたたかい)で甲斐国の戦国大名・武田勝頼(たけだかつより)を破り、1576年(天正4年)に安土城を築城しました。その後天下統一の途中である1582年(天正10年)6月21日(旧暦6月2日)の本能寺の変により、49才で自刃しました。
大雄苑は1940年(昭和15年)に植熊(うえくま)三代目・加藤熊吉(かとうくまきち)が作庭した枯山水式庭園です。大雄苑は中国江西省奉新県の百丈山(ひゃくじょうざん)の眺めを模し、百丈山の別名・大雄山から大雄苑と名付けられました。ちなみに百丈山は奈良時代後期に当たる784年(興元元年)に百丈懐海(ひゃくじょうえかい)が入山し、百丈寺(郷導庵)を創建し、黄檗希運(おうばくきうん)らが参禅すると最初の独立の禅宗寺院になりました。大雄苑は白川砂の砂紋に織田有楽斎が兄・織田信長の供養に建立した石塔や七五三に並んだ岩などが配されています。
建仁寺見どころ

ページ上部へ戻る