建仁寺楽神廟・建仁寺見どころ(修学旅行)

建仁寺楽神廟

●建仁寺楽神廟は2010年(平成22年)3月23日に京都府指定有形文化財に指定されました。
●建仁寺楽神廟は江戸時代前期に建立されたと言われています。楽神廟は栄西禅師(明菴栄西)の母が岡山・吉備津神社(きびつじんじゃ)の末社・楽の社に参詣した後、夢に明星が現れて栄西禅師を懐妊したことから楽大明神が祀られています。楽大明神は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)の化身とされ、宇宙のように無限の知恵と慈悲を持ち、学徳増進・記憶力増進のご利益があるとも言われています。
吉備津神社は社伝によると第7代・孝霊天皇の第3皇子で、祭神・大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)が標高約175メートルの吉備中山の山麓の茅葺宮に住み、281歳で亡くなって山頂に葬られ、5代目の子孫・加夜臣奈留美命(かやなるみのみこと)が茅葺宮に社殿を造営し、大吉備津彦命を祀ったのが起源とも言われています。また第16代・仁徳天皇が吉備国に行幸し、大吉備津彦命の業績を称えて5つの社殿と72の末社を建立したのが起源とも言われています。
明菴栄西は平安時代後期の1141年(永治元年)5月27日に岡山県岡山市・吉備津神社(きびつじんじゃ)の権禰宜(ごんねぎ)・賀陽貞遠の子として生まれました。1151年(仁平元年)に備中・安養寺(あんようじ)の静心に師事し、1154年(久寿元年)14歳で比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)で出家得度しました。延暦寺・吉備の安養寺・伯耆の大山寺(だいせんじ)などで天台宗(てんだいしゅう)の教学・密教を学び、その後自分の坊号を冠した葉上流を興しました。1168年(仁安3年)4月に堕落した天台宗を立て直すべく、南宋(中国)に留学し、天台山万年寺(まんねんじ)を訪れ、同年9月に「天台章疎」60巻を持って帰国しました。1187年(文治3年)に再び南宋に渡り、仏法辿流の為にインド渡航を願い出るが、許可されませんでした。その後天台山万年寺の虚庵懐敞(こあんえじょう)に師事し、1189年(文治5年)に虚庵懐敞にともに天童山景徳寺(けいとくじ)に移り、1191年(建久2年)に虚庵懐敞から臨済宗(りんざいしゅう)黄龍派(おうりゅうは)の嗣法(しほう)の印可(いんか)を受け、号・明菴を授かりました。1191年(建久2年)に帰国して布教を開始し、お茶の種を持ち帰って栽培も始めました。1195年(建久6年)に博多・聖福寺(しょうふくじ)を創建して日本最初の禅道場にしました。1198年(建久9年)に京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、1200年(正治2年)に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)一周忌の導師を務め、源頼朝の継室・北条政子(ほうじょうまさこ)創建の寿福寺(じゅふくじ)の住職に招聘されました。1202年(建仁2年)に鎌倉幕府第2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)の外護によって京都・建仁寺(けんにんじ)を創建し、1204年(元久元年)に奈良・東大寺(とうだいじ)勧進職(かんじんしょく)に就任しました。なお明菴栄西は1215年(建保3年)8月1日に亡くなりました。
●建仁寺楽神廟は一間社流見世棚造(ながれみせだなづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
見世棚造は土台の上に組まれ、正面に階段のない間口が一間ぐらいの小さな社殿です。見世棚造は神社の末社などに使われます。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
建仁寺見どころ

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