建仁寺東陽坊・建仁寺見どころ

建仁寺東陽坊

●建仁寺東陽坊は安土桃山時代の1587年(天正15年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が北野大茶湯(北野大茶会)を行った際、紙屋川(かみやがわ・天神川)の土手に建てられ、千利休(せんのりきゅう)の高弟・真如堂東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)が担当した副席とも言われています。東陽坊はかつて真如堂(しんにょどう)の塔頭(たっちゅう)・東陽坊の末寺・北野の高林寺(こうりん)にあったが、その後度々移され、1901年(明治34年)に安永萬次郎が建仁寺に寄贈し、大正年間(1912年~1926年)に現在の場所に移されました。なお建仁寺東陽坊は二畳台目(にじょうだいめ)で、最も規範的な茶室と言われています。
真如堂東陽坊長盛は戦国時代(室町時代後期)の1515年(永正12年)に生まれました。天台宗の僧になり、茶の湯を千利休に学び、薄茶の先達(せんだつ)とも言われています。千利休から初代・楽長次郎作の茶碗の内、千利休が名作として選んだ長次郎七種(ちょうじろうしちしゅ)のひとつである黒楽茶碗・東陽坊を贈られました。長次郎七種(利休七種茶碗)には黒楽が大黒(おおぐろ)・鉢開(はちびらき)・東陽坊、赤楽が早船(はやふね)・検校(けんぎょう)・臨済(りんざい)・木守(きまもり)です。なお真如堂東陽坊長盛は安土桃山時代の1598年(慶長3年)4月5日に亡くなりました。
北野大茶湯(北野大茶会)は安土桃山時代の1587年(天正15年)11月1日(旧暦10月1日)に関白・豊臣秀吉が北野天満宮境内で行った身分を問わない無礼講の茶会です。1587年7月に九州を平定し、7月末から諸大名・公家や京都大坂の茶人などに茶会開催の朱印状を出し、7月28日に京都五条などに茶会開催の触書を出し、9月から会場の工事が行われました。北野大茶湯では1,500軒以上の数寄屋や茶屋を建てて客をもてなしたり、豊臣秀吉が所有する名物(茶道具)を公開したりしました。豊臣秀吉は黄金の茶室を北野天満宮の拝殿(12畳分)の中央に持ち込み、茶入「似たり茄子(百貫茄子)」などの自慢の名物を陳列しました。豊臣秀吉は千利休(せんのりきゅう)・津田宗及(つだそうきゅう)・今井宗久(いまいそうきゅう)とともに亭主(茶頭)を務めました。なお北野大茶湯は当初10日間の予定だったが、たった1日で終わったそうです。ちなみに肥後(熊本県)の国人一揆が発生したことが切り上げの理由とも言われています。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長(おだのぶなが)の足軽(百姓)・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院(てんずいいん))との間に生まれました。1554年(天文23年)頃から織田信長に仕え、1561年(永禄4年)に浅野長勝(あさのながかつ)の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後戦功を重ねて頭角を現し、1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)後、山崎の戦い(やまざきのたたかい)で明智光秀を破り、四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げ、1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。なお豊臣秀吉は1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。
建仁寺見どころ

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