建仁寺浴室・建仁寺見どころ(修学旅行)

建仁寺浴室

●建仁寺浴室は2010年(平成22年)3月23日に京都府指定有形文化財に指定されました。
●建仁寺浴室は江戸時代前期の1628年(寛永5年)に建仁寺295世・三江紹益(さんこうじょうえき)が建立しました。2002年(平成14年)に法堂(はっとう)の東から現在の場所に移されました。建仁寺浴室は湯気で体を温める蒸し風呂で、待合・蒸し風呂・土間(火炊場)があります。建仁寺浴室では入浴も修行とされ、厳しい作法が細かく定められてました。
三江紹益は戦国時代(室町時代後期)の1572年(元亀3年)に京都で生まれました。安土桃山時代に建仁寺(けんにんじ)の境外塔頭・常光院(じょうこういん)に入山し、常光院3世になったとも言われています。江戸時代初期の1606年(慶長11年)に臨済宗(りんざいしゅう)建仁寺派の大本山・建仁寺に入山し、その後建仁寺295世になりました。その後奥平信昌(おくだいらのぶまさ)が三江紹益を開山として建仁寺の塔頭・久昌院(きゅうしょういん)を創建しました。1624年(寛永元年)に高台寺(こうだいじ)に招聘され、高台寺を曹洞宗(そうとうしゅう)から臨済宗に改めました。三江紹益は関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の正室・北政所(きたのまんどころ)の兄・木下家定(きのしたいえさだ)と関係が深く、木下家定の七男・木下秀規(きのしたひでのり)が三江紹益のもとで出家したとも言われています。また三江紹益は江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に信任され、経書を講じたこともありました。1624年(寛永元年)に高台寺の塔頭・圓徳院(えんとくいん・円徳院)の開山になりました。三江紹益は「三江和尚建仁入寺法語」を記したと言われています。なお三江紹益は江戸時代前期の1650年(慶安3年)に亡くなりました。
一般的に浴室は浴場のある建物です。古くから神道では川や滝で沐浴(もくよく)の一種である禊(みそぎ)が行われていました。飛鳥時代に仏教が伝来すると僧侶が沐浴する浴堂(湯堂)などが建立されました。ただ入浴は湯に浸かるのではなく、薬草などを入れた湯を沸かし、蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式でした。その後社寺などに参籠する大衆用の潔斎浴場(けっさいよくじょう)も別に建てられ、大湯屋と称しました。平安時代には上級の公家の屋敷内に蒸し風呂の浴堂が取り入れられるようになり、清少納言(せいしょうなごん)の随筆「枕草子(まくらのそうし)」にも蒸し風呂の様子が記されています。ちなみに僧侶は潔斎の為に早くから湯を別の湯槽に入れて行水することもあったが、大衆は長く蒸し風呂形式で、江戸時代初期に湯に浸かる浸す方式になりました。なお浴室は禅宗寺院で本尊を安置する仏殿(金堂)・仏国土に至る三門(山門)・僧侶の居住する庫裏(くり)・僧侶が仏教を講義する法堂(はっとう)・仏道修行に励む禅堂(そうどう)・トイレである東司(とうす)とともに七堂伽藍に数えられています。また浴室は僧堂・東司とともに私語を謹む三黙堂(さんもくどう)に数えられています。
●建仁寺浴室は桁行五間・梁行三間で、切妻造(きりづまづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。建仁寺浴室は両側面に突出部があります。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
建仁寺見どころ

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