祇園祭と神泉苑(しんせんえん)・禁苑
祇園祭と神泉苑(しんせんえん)・禁苑
祇園祭の起源とされる祇園御霊会は平安時代前期の869年(貞観11年)に神泉苑で行われました。神泉苑は794年(延暦13年)に第50代・桓武天皇(かんむてんのう)が平安京遷都を行った際に天皇が占有する禁苑として造営されました。
【祇園祭2025 日程】
祇園祭2025は2025年7月1日(火曜日)の吉符入(きっぷいり)から2025年7月31日(木曜日)の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2025日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【祇園祭と神泉苑(しんせんえん)・禁苑】
祇園祭の起源とされる祇園御霊会は平安時代前期の869年(貞観11年)に神泉苑(しんせんえん)で行われました。神泉苑は794年(延暦13年)に第50代・桓武天皇(かんむてんのう)が平安京遷都を行った際に天皇が占有する禁苑(きんえん)として造営されました。平安京を設計した巨勢金岡(こせのかなおか)が作庭したとも言われています。神泉苑は平安宮(大内裏)の南東に位置し、北側の二条大路・南側の三条大路・東側の東大宮大路・西側の壬生大路東に囲まれ、大きさが南北4町(南北約500メートル)・東西2町(東西約240メートル)ありました。神泉苑には大池を中心に大池・泉・小川・小山・森林などがあり、北部に中国風の乾臨閣(けんりんかく)を主殿とし、二階建ての右閣・左閣や西釣台・東釣台・滝殿・後殿などの宮殿が建てられ、舟着場がありました。「文徳実録」856年(斉衡3年)12月28日の条に「丁酉。美作国献白鹿。詔放神泉苑。」と記され、美作国(岡山県)から献上された白鹿が放たれたりもしました。神泉苑では平安時代後期編纂の歴史書「日本紀略(にほんきりゃく)」800年(延暦19年)7月19日の条に「乙卯。幸神泉苑。」と記され、800年(延暦19年)8月12日に桓武天皇が行幸しました。その後桓武天皇は5年間に27回行幸した記録が残されています。その後神泉苑は歴代天皇の饗宴(遊宴)の場とし、相撲・賦詩・観射・奏楽・御馬御覧・遊猟・遊釣などが行われました。第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)が14年間に43回も神泉苑に行幸し、812年(弘仁3年)に花宴の節を初めて行いました。
神泉苑は歴代天皇の饗宴(遊宴)の場だけでなく、雨乞い(祈雨・請雨)の場所にもなりました。824年(天長元年)に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)の勅命によって池畔に雨乞いを行ないました。北インドの無熱池の善女龍王(ぜんにょりゅうおう)を勧請し、日本国中に雨が降ったと言われています。弘法大師・空海は西寺の守敏(しゅびん)と祈雨の法を競い、勝利しました。雨乞いの正史の初見は「三代実録」877年(元慶元年)6月26日の条に「廿六日乙未。屈傳灯大法師位教日於神泉苑。廿一僧。修金翅鳥王經法。祈雨也。」と記されているものです。神泉苑は9世紀後半から専ら雨乞いの場として使用されるようになりました。
神泉苑では御霊会も行われました。「三代実録」863年(貞観5年)5月20日の条に「廿日壬午。於神泉苑修御霊会。勅遣左近衛中将従四位下藤原朝臣基経。右近衛権中将従四位下兼行内蔵頭藤原朝臣常行等。監會事。王公卿士赴集共観。霊座六前設施几筵。盛陳花果。恭敬薫修。延律師慧達爲講師。演説金光明経一部。般若心経六卷。」と記され、祭礼行事も行われるようになりました。
神泉苑は平安時代に広大な規模を誇っていたが、「玉葉」1191年(建久2年)5月13日の条に「又神泉苑、死骸充満、糞尿汚穢、不可勝計云々、仍慥明日明後日之内、可洒掃之由、仰別当能保卿」と記され、鎌倉時代以降徐々に荒廃し、敷地が削減され、現在は往時の16分の1程度まで面積が縮小し、古義真言宗東寺派に属する寺院になっています。
【第50代・桓武天皇 祇園祭】
第50代・桓武天皇は737年(天平9年)に第49代・光仁天皇と高野新笠の間に生まれ、光仁天皇の第1皇子でした。母が百済系渡来人氏族・和氏の出身であったことから官僚として大学頭・侍従に任じられ、770年(宝亀元年)に父が第49代・光仁天皇に即位すると親王宣下されました。772年(宝亀3年)に父の后・井上内親王が父を呪詛したとして皇后を廃され、その後異母弟・他戸親王も皇太子を廃されると翌773年(宝亀4年)に皇太子になりました。781年(天応元年)に父から譲位され、45歳で第50代・桓武天皇に即位しました。仏教政治の弊害を除く為に僧侶の不法を取り締まり、784年(延暦3年)に長岡京に遷都し、藤原種継の暗殺事件が起こると794年(延暦13年)に更に平安京に遷都し、律令国家としての強化・拡大を図りました。天台宗の宗祖である伝教大師・最澄や真言宗の宗祖である弘法大師・空海を重用して平安仏教の確立にも尽力しました。また奥羽の蝦夷平定の為に坂上田村麻呂を将軍として遠征させ、地方行政の整備なども行いました。なお第50代・桓武天皇は806年(延暦25年)4月9日に崩御しました。
【祇園祭と神泉苑(しんせんえん)・禁苑 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
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