金閣寺浄蔵貴所の墓・金閣寺見どころ

金閣寺浄蔵貴所の墓

●金閣寺浄蔵貴所の墓は受付の東にあります。浄蔵貴所の墓は高さ約1メートルの五輪塔(ごりんとう)です。浄蔵貴所は傾いた八坂の塔(法観寺の五重塔)を法力で元に戻したとも言われています。また浄蔵貴所は一条戻橋(土御門橋)で亡くなった父・三善清行(みよし のきよゆき)を読経で一時的に生き返らせ、戻橋(もどりばし)の由来になったとも言われています。
浄蔵貴所は平安時代前期の891年(寛平3年)に公卿・漢学者である三善清行の子として生まれました。4歳で千字文を読み、7歳で仏門に帰し、熊野・金峰山(きんぷせん)などの霊山で苦行を積んだとも言われています。902年(延喜2年)12歳で宇多法皇(第59代・宇多天皇)に師事して出家し、その後比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)で玄昭(げんしょう)に密教、大慧(だいえ)に悉曇(しったん)を学びました。平安時代の私撰歴史書「扶桑略記(ふそうりゃくき)」によると909年(延喜9年)に菅原道真(すがわらのみちざね)左遷の中心人物とされる太政大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)に祟っているという菅原道真の調伏に行くが、藤原時平の両耳から青竜に化した菅原道真が現れたことから調伏を辞退し、その後藤原時平が亡くなったとも言われています。また935年(承平5年)から平将門(たいらのまさかどが)が平将門の乱を起こすと調伏を行い、霊験があったとも言われています。浄蔵貴所は天文・医学・卜筮(ぼくぜい)・管弦・文章などにも才能を発揮したと言われています。なお浄蔵貴所は964年(康保元年)12月27日に亡くなりました。
八坂の塔(法観寺)は伝承によると飛鳥時代の592年(崇峻天皇5年)に聖徳太子(しょうとくたいし)が如意輪観音(にょいりんかんのん)の夢告により、五重塔を建立して仏舎利(ぶっしゃり)を三粒を収めたのが起源とも言われています。また八坂の塔は794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇による平安京遷都以前に渡来氏族・八坂氏(やさかし)の氏寺として創建されていたとも言われています。その後平安時代末期の1179年(治承三年)に焼失したが、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)が再建しました。しかしその後も度々か焼失し、その都度再建されました。現在の五重塔は室町時代中期の1440年(永享12年)に室町幕府第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が再建しました。
一条戻橋は794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇による平安京遷都の際、一条大路( いちじょうおおじ)を横切る堀川(ほりかわ)に架けられ、一条橋・土御門橋(つちみかどばし)・土御門堀川橋(つちみかどほりかわばし)などと言われました。一条戻橋では浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)・渡辺綱(わたなべのつな)・安倍晴明(あべのせいめい)などの伝承などが残されています。また一条戻橋では安土桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の怒りを買って自刃した茶人・千利休(せんのりきゅう)の首が晒されました。一条戻橋は結婚間近な女性などは実家に戻らないように通らないとも言われています。また太平洋戦争に召集された兵士は無事に戻って来れるように通ったとも言われています。なお現在の一条戻橋は1995年(平成7年)に架け替えられました。
金閣寺見どころ

ページ上部へ戻る