金閣寺金閣・金閣寺見どころ

金閣寺金閣

●金閣寺金閣(舎利殿)は国宝保存法によって国宝に指定されていたが、1950年(昭和25年)7月2日未明に放火によって焼失しました。
●金閣寺金閣(舎利殿)は室町時代の1398年(応永5年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が建立したが、1950年(昭和25年)7月2日未明に放火によって焼失しました。金閣は1952年(昭和27年)から再建が始まり、1955年(昭和30年)3月22日に完成し、1955年(昭和30年)10月10日に落慶法要が行われました。なお舎利殿はお釈迦様の遺骨である仏舎利(ぶっしゃり)を安置する建物です。舎利殿は一般的に方形で、中央に舎利塔を置きます。
足利義満は南北朝時代の1358年(正平13年・延文3年)8月22日に室町幕府2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)と側室・紀良子(きのりょうし)の間に生まれました。紀良子は石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の検校・善法寺通清の娘で、第84代・順徳天皇の玄孫で、足利義満は「春王」と名付けられました。1366年(正平21年・貞治5年)12月に北朝第4代・後光厳天皇から「義満」の名を賜り、従五位下に叙せられました。1367年(正平22年・貞治6年)12月7日に足利義詮が死去すると10歳で将軍家の家督を継ぎ、1368年(正平23年・応安元年)4月に元服し、1369年(正平23年・応安元年)12月30日に征夷大将軍宣下を受け、室町幕府3代将軍になりました。足利義満は南北朝の合一を果たし、金閣寺(鹿苑寺(ろくおんじ))を建立して北山文化を開花させました。なお金閣寺の前身である北山山荘は北山殿(きたやまどの)・北山第(きたやまてい)とも言われ、その規模は御所に匹敵し、政治の中枢が全て集約されていました。足利義満は1394年(応永元年)に将軍職を子で、室町幕府第4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)に譲ったが、その後実権は手放さずに北山山荘で政務を執りました。
かつての金閣寺金閣(国宝)は1950年(昭和25年)7月2日未明に足利義満坐像(国宝)・伝運慶(うんけい)作の観世音菩薩像・春日仏師作の夢窓疎石(むそうそせき)像など10体の木像などとともに21歳の大学生で、学僧(京都府舞鶴市出身)による放火によって焼失しました。学僧は放火直後に裏山で自殺を図ったが、一命を取り留めました。1950年(昭和25年)12月28日に懲役7年を言い渡されて服役したが、服役中に結核と統合失調症が進行し、刑務所から病院に身柄を移されたが、1956年(昭和31年)3月7日に26歳で病死しました。なお放火事件は三島由紀夫(みしまゆきお)の小説「金閣寺」・水上勉(みずかみつとむ)の小説「五番町夕霧楼」・「金閣炎上」の題材になりました。
仏舎利は入滅したお釈迦さまが荼毘に付された際の遺骨を指します。お釈迦さま(釈迦牟尼 ゴータマ・シッダッタ)は仏教の開祖で、世界四聖の一人です。ちなみに仏陀とは悟った者・目覚めた者を意味するお釈迦様の尊称です。お釈迦さまは約2,500年前の旧暦の4月8日、インド国境に近いネパールのルンビニーの花園で、父・シャカ族の国王である浄飯王(じょうばんのう・シュッドーダナ)と母・摩耶夫人(まやふじん・マーヤー)との間に生まれました。お釈迦さまは生まれてすぐに7歩歩き、右手で天、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と唱えたとも言われています。29歳で出家し、35歳の旧暦の12月8日の夜明け前、明星出現と同時にブッダガヤの菩提樹の下で、悪魔の誘惑に負けずに悟りを開きました。その後約45年間に渡り、インド各地を回って教えを説き、クシナーラで亡くなりました。お釈迦さまの遺骸は火葬され、遺骨は各地のストゥーパに分けて祀られたそうです。
金閣寺見どころ

ページ上部へ戻る