金閣寺・仁和寺散策コース(きぬかけの路・龍安寺・等持院)

金閣寺・仁和寺散策コース
金閣寺・仁和寺散策コースはいずれも世界遺産である金閣寺・龍安寺・仁和寺をきぬかけの路で結ぶ散策コースです。東側の金閣寺から西側の仁和寺までは距離が約3キロあり、徒歩で約40分掛かります。金閣寺・仁和寺散策コースでは3つの世界遺産を巡ることができるが、金閣寺から仁和寺までは少し起伏があり、距離もある為、時間・体力がある方におすすめです。無理は禁物です。金閣寺・仁和寺散策コース周辺には宇多天皇ゆかりのきぬかけの路・安産のお守りとして稲藁が授与されるわら天神宮・足利尊氏の墓所である等持院・五智如来石像が祀られている蓮華寺などがあります。桜シーズンには仁和寺・龍安寺、紅葉シーズンには金閣寺・龍安寺でじっくり拝観するのがおすすめです。
【金閣寺・仁和寺散策コース】
【金閣寺(きんかくじ) 概要】
金閣寺は1224年(元仁元年)に西園寺公経が造営した北山第があった場所です。1397年(応永4年)に室町幕府3代将軍・足利義満が河内の領地との交換によって北山第を譲り受け、北山殿を造営しました。1398年(応永5年)に金閣が建立され、1404年(応永11年)から北山大塔の造営が開始されたが、1416年(応永23年)に落雷で未完のまま焼失したとも言われています。1408年(応永15年)に義満が亡くなると1409年(応永16年)に足利義持が北山殿の一部を破却し、その後義満の妻・日野康子の御所になりました。1419年(応永26年)に康子が亡くなると金閣以外の建物などは解体され、南禅寺・建仁寺などに移されたと言われています。1420年(応永27年)に義満の遺言により、義満を開基、夢窓疎石を開山として、禅寺の北山鹿苑寺に改められました。鹿苑寺の名称は義満の法号「鹿苑院殿」に由来しています。その後応仁の乱で伽藍の多くが焼失したが、金閣・不動堂・護摩堂などは焼失を免れました。
金閣寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)・金閣寺見どころ
【きぬかけの路(きぬかけのみち) 概要】
きぬかけの路は衣笠山山麓にいずれも世界遺産である金閣寺から龍安寺を経由し、仁和寺まで続く長さ約2.5キロの道です。きぬかけの路は平安時代に宇多天皇が真夏に雪見をする為、衣笠山に絹を掛けたと言われている故事に因んで、1991年(平成3年)の公募で名付けられました。
【わら天神宮(わらてんじんぐう) 概要】
わら天神宮(敷地神社)は元々、衣笠村に降臨した天神地祇が北山の神として祀られていた場所と言われています。その後831年(天長8年)に氷室が設けられ、加賀から夫役として移った者が加賀・菅生石部神社の敷地天神を勧請し、氏神として菅生石部神の母神・木花開耶姫命を北山の神の隣に祀ったと言われています。1397年(応永4年)に室町幕府3代将軍・足利義満が金閣寺(北山殿)を造営した際、北山の神と木花開耶姫命を合祀し、現在の場所に移して鎮守神としました。
わら天神宮(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【等持院(とうじいん) 概要】
等持院は1341年(興国2年・暦応4年)に室町幕府初代将軍・足利尊氏が中京区柳馬場御池付近に創建した等持寺の別院として、夢窓疎石を開山に北区等持院北町に北等持寺として創建されたのが起源と言われています。その後1358年(延文3年)に尊氏が亡くなると北等持寺が尊氏の墓所になり、法名・等持院殿仁山妙義大居士長寿寺殿から等持院に寺号が改められました。応仁の乱で等持寺が焼失し、等持院が等持寺を合寺しました。その後江戸時代初期に豊臣秀頼が父・豊臣秀吉の遺命によって再建したが、その後度々焼失し、1818年(文政元年)に福島正則が1616年(元和2年)に建立した妙心寺の塔頭・海福院の建物が移されて方丈となりました。
等持院(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【蓮華寺(れんげじ) 概要】
蓮華寺は1057年(天喜5年)に藤原康基が後冷泉天皇の御願によって創建しました。その後応仁の乱で鳴滝音戸山の山上に移りました。百数十年の間、荒廃が続いたとも言われています。1641年(寛永18年)に常信が伽藍を再興し、五智如来石像を木喰僧・坦称上人に造らせ、後水尾天皇の兄・覚深法親王から号「五智山蓮華寺」を賜りました。1928年(昭和3年)に住職・慈海大僧正が現在の場所に移しました。
蓮華寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)
【龍安寺(りょうあんじ) 概要】
龍安寺は984年(永観元年)に創建され、四円寺に数えられた円融天皇の御願寺・円融寺があった場所です。その後藤原実能が山荘を営み、徳大寺を創建した場所です。龍安寺は1450年(宝徳2年)に細川勝元が徳大寺公有から山荘を譲り受け、義天玄詔を開山、玄詔の師・日峰宗舜を勧請開山として創建しました。しかし勝元が東軍総大将になった応仁の乱で焼失し、1488年(長享2年)に勝元の子・細川政元が中興の祖・特芳禅傑とともに再興し、方丈が再建・石庭が作庭されたと言われています。龍安寺には勝元夫妻と政元の墓が残されています。1588年(天正16年)に関白・豊臣秀吉が前田利家らと鷹狩りを行った際、龍安寺の方丈前に植えられている糸桜(いとざくら)を眺めました。1797年(寛政9年)に火災で方丈・開山堂・仏殿など伽藍の多くを焼失し、妙心寺の塔頭・西源院の方丈を移して方丈が再建されました。
龍安寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)・龍安寺見どころ
【仁和寺 概要】
仁和寺は886年(仁和2年)に光孝天皇が西山御願寺を創建することを発願したのが起源です。しかし翌887年(仁和3年)に光孝天皇が崩御し、888年(仁和4年)に宇多天皇が父・光孝天皇の遺志を引き継いで完成させました。当初、西山御願寺と言われていたが、年号寺である仁和寺に寺号を改められました。897年(寛平9年)に宇多天皇は醍醐天皇に譲位し、899年(昌秦2年)に落髪して仁和寺1世になりました。904年(延喜4年)に宇多法皇は僧房・御室(御座所)を造営して住み、御室御所と言われるようになりました。応仁の乱で伽藍の多くが焼失し、本尊・阿弥陀三尊などは仁和寺の院家・真光院に移されました。の1634年(寛永11年)に後陽成天皇の皇子・覚深入道親王が上洛していた江戸幕府3代将軍・徳川家光に再興を申し入れて承諾されました。寛永年間の御所造替と重なったことから紫宸殿・清涼殿・常御殿などの建物を賜り、1646年(正保3年)に伽藍の再建が完了しました。
仁和寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)・仁和寺見どころ
【金閣寺・仁和寺散策コース 備考】
散策コースではグーグルマップを使用して、スポットを紹介しています。