- Home
- 北野天満宮火之御子社・北野天満宮見所(修学旅行・観光)
北野天満宮火之御子社・北野天満宮見所(修学旅行・観光)
北野天満宮火之御子社
●北野天満宮火之御子社は北野天満宮の摂社です。火之御子社は北野天満宮創建以前から祀られていたとも言われています。また火之御子社は平安時代前期の880年(元慶4年)頃に太政大臣・藤原基経(ふじわらのもとつね)が五穀豊穣を祈願する為に祀ったとも言われています。火之御子社は火雷神(からいしん)を祀り、雷除け・五穀豊穣のご利益があるとも言われています。なお火之御子社では例年6月1日に雷除大祭(かみなりよけたいさい)が行われ、守札が授与されます。また例年12月31日に北野のおけら詣とも言われる鑽火祭(きりびさい)が行われ、参拝者は浄火を火縄に移し、火縄を回しながら自宅に持ち帰ります。
火雷神(ほのいかづちのかみ)は火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)・雷神(いかづちのかみ)・八雷神(やくさいかづちのかみ)とも言われる雷神です。火雷神は国産み・神産みの伊邪那美命(いざなみのみこと)が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生んで亡くなり、黄泉の国(よみのくに)で伊邪那美命の遺体から8柱の雷神が生まれました。火雷神は伊邪那美命の胸から生まれ、頭から大雷神(おほいかづちのかみ)、腹から黒雷神(くろいかづちのかみ)、女陰から咲雷神(さくいかづちのかみ・裂雷神)、左手から若雷神(わかいかづちのかみ)、右手から土雷神(つちいかづちのかみ)、左足から鳴雷神(なるいかづちのかみ)、右足から伏雷神(ふすいかづちのかみ)が生まれました。また火雷神は「山城国風土記(やましろこくふうどき)」の逸文によると下鴨神社の祭神・玉依姫命(たまよりひめのみこと)が川遊びしていると一本の丹塗矢(にぬりや)が流れ着き、持ち帰ったところ懐妊し、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)を生んだと記され、丹塗矢は火雷神であったと言われています。火雷神は雷神とともに水の神・雨乞いの神・稲作の守護神ともされています。
藤原基経は平安時代前期の836年(承和3年)に中納言・藤原長良(ふじわらのながら)の三男として生まれ、男子がなく、実力者であった叔父で、太政大臣・藤原良房(ふじわらのよしふさ)の養嗣子になりました。869年(貞観10年)に実妹で、第56代・清和天皇の女御・藤原高子(ふじわらのこうし)が第57代・陽成天皇となる貞明親王を生み、872年(貞観14年)に右大臣になり、同年に養父・藤原良房が亡くなると実力者になり、その後第56代・清和天皇、第57代・陽成天皇、第58代・光孝天皇、第59代・宇多天皇の四代にわたって朝廷の実権を握り、史上初の関白に就任しました。なお藤原基経は891年(寛平3年)2月24日に亡くなりました。
●北野天満宮火之御子社は本殿が一間社(いっけんしゃ)流造(ながれづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
【北野天満宮 備考】
*参考・・・京都・北野天満宮(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
●北野天満宮の歴史(創建から現在)を紹介しています。
北野天満宮歴史(菅原道真・豊臣秀吉・豊臣秀頼)
●北野天満宮の見どころ(本殿・三光門など)を紹介しています。
北野天満宮見どころ(本殿・三光門など)