北野天満宮の歴史は多治比文子らが神殿に菅原道真を祀ったのが起源
北野天満宮の時代別年表と重要人物
北野天満宮は947年(天暦元年)に多治比文子、近江比良宮の神主・神良種、朝日寺の僧・最珍らが神殿を建て、菅原道真を祀ったのが起源です。なお942年(天慶5年)に多治比文子に菅原道真の託宣があったと言われています。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【渡来系氏族・秦氏と地主社】
- 北野天満宮が祀られている場所は渡来系氏族(渡来人(とらいじん))・秦氏(はたうじ)の領地で、古くから雷神(らいじん)が祀られていたとも言われています。その後平安時代に第50代・桓武天皇(かんむてんのう)の皇子・伊予親王(いよしんのう)が大井荘(おおいのしょう)を営み、馬場で騎射(きしゃ)が行われていたと言われています。また天照大神(あまてらすおおかみ)を祀る桜宮や奈良から移された常住寺(じょうじゅうじ)が建立されていたとも言われています。
- 836年(承和3年)に遣唐使(けんとうし)の為に天神地祇(てんじんちぎ)を祀る祭場になったとも言われています。天神地祇を祀る地主社(摂社・地主神社)の起源とも言われています。
- 899年(昌泰2年)に北野天満宮祭神・菅原道真(すがわらのみちざね)が右大臣(うだいじん)に任命されたが、901年(延喜元年)に左大臣(さだいじん)・藤原時平(ふじわらのときひら)の讒言(ざんげん・告げ口)により、太宰府(だざいふ)に左遷(させん)され、903年(延喜3年)に大宰府で亡くなりました。菅原道真の死後に京都では悪疫(あくえき)が続き、菅原道真の怨霊の仕業と恐れられ、朝廷は923年(延喜23年)に左遷を撤回し、官位を右大臣に復して正二位(しょうにい)を贈りました。ただ930年(延長8年)には清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)も起こりました。
- 942年(天慶5年)に右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)に「右近の馬場に祀れ」という菅原道真の託宣(たくせん)があり、自邸内に仮の小祠(しょうし)を祀ったとも言われています。北野天満宮の前身とも言われています。
【北野天満宮の起源・始まり】
- 北野天満宮は947年(天暦元年)に多治比文子に再び託宣があり、また近江比良宮(ひらのみや)神主(かんぬし)・神良種(みわのよしたね)の子・太郎丸にも託宣があったと言われ、多治比文子と神良種、そして北野朝日寺(東向観音寺(ひがしむきかんのんじ))の僧・最珍(さいちん)らが社殿を建立し、菅原道真を祀ったのが起源と言われています。北野朝日寺は神宮寺になり、菅原家の出であった曼殊院(まんしゅいん)門跡・是算国師(ぜざんこくし)が初代北野別当(べっとう)になりました。なお曼殊院は奈良時代末期から平安時代初期の延暦年間(782年~806年)に天台宗(てんだいしゅう)の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)が比叡山に鎮護国家の道場として創建した坊(小寺院)が起源と言われ、天暦年間(947年~957年)に是算国師が比叡山西塔北渓に移し、東尾坊と号しました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
- 959年(天徳3年)頃に菅原道真の左遷の原因になった藤原時平の甥・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)が私邸を北野天満宮に寄贈し、大規模な社殿が建立されました。
- 973年(天延元年)に焼失したとも言われています。
- 987年(永延元年)に第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)が勅使(ちょくし)を北野天満宮に派遣し、神号「北野天満宮天神(きたのたんまんぐうてんじん)」を賜り、勅祭・北野祭が始まったとも言われています。
- 991年(正暦2年)に北野天満宮は伊勢神宮(いせじんぐう)以下、十九社に列せられました。その後1081年(承暦5年)に二十二社の下八社に列せられました。
- 993年(正暦4年)に祭神・菅原道真に正一位(しょういちい)・太政大臣(だいじょうだいじん)が追贈されました。
- 1004(寛弘元年)に第66代・一条天皇が初めて北野天満宮に行幸しました。
- 1081年(承暦5年)に二十二社の制の下八社に列せられたと言われています。
- 平安時代以降、松梅院・徳勝院・妙蔵院の祠官三家の社僧が神官を務めました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
- 1204年(元久元年)に北野天満宮で歌会が開かれました。
- 1234年(天福2年)に焼失したとも言われています。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
- 1375年(文中4年・応安8年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつが)が北野天満宮に初めて参詣し、その後度々参詣しました。南北朝時代以降に足利氏から崇敬されました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
- 1398年(応永5年)に北野天満宮に法楽連歌(ほうらくれんが)が行われました。
- 1401年(応永8年)に室町幕府3代将軍・足利義満が明徳の乱(めいとくのらん・山名氏清の乱(やまなうじきよのらん))の戦没者と悼んで、北野天満宮に北野経王堂願成就寺を建立しました。
- 1442年(嘉吉2年)に北野天満宮が七社(石清水八幡宮・賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)・松尾大社・平野神社・春日大社)に列せられました。
- 1444年(文安元年)に麹座(こうじざ)の麹製造の独占権を巡る文安の麹騒動(ぶんあんのこうじそうどう)により、室町幕府の攻撃によって社殿を焼失し、一時衰退しました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
- 1587年(天正15年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が北野天満宮で北野大茶会(きたのだいさのえ・北野大茶湯)を行いました。
- 1591年(天正19年)に出雲阿国が松梅院でややこおどりを披露したと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
- 1603年(慶長8年)に出雲阿国が男装して歌舞伎踊(阿国歌舞伎)を披露したと言われています。
- 1605年(慶長10年)に豊臣秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が片桐且元(かたぎりかつもと)を造営奉行として、北野経王堂を再建しました。
- 1607年(慶長12年)に豊臣秀頼が片桐且元を造営奉行として、本殿など北野天満宮の社殿を再建しました。
- 1662年(寛文2年)に地震で社殿が損傷を受け、その後修築されました。ただ末社は江戸幕府の命によって一社ずつではなく、長屋形式で再建されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 1868年(明治元年)に北野別当職が廃止され、松梅院・徳勝院・妙蔵院の祠官三家も廃寺になりました。北野天満宮内の仏堂の多くが解体され、北野経王堂は大報恩寺(千本釈迦堂)に移されました。
- 1871年(明治4年)に社名を北野神社に改め、太平洋戦争後に更に北野天満宮に改めました。
- 1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に列せられました。
- 2022年(令和4年)に明治時代に壊された庭園・花の庭が梅苑・花の庭として復興されました。
【北野天満宮の祭神とされる菅原道真】
菅原道真は845年(承和12年)に菅原是善と母・伴真成の娘の三男として生まれました。幼少の頃から和歌・漢詩に優れ、862年(貞観4年)に文章生試験に合格し、867年(貞観9年)に文章生から2名が選ばれる文章得業生になり、正六位下・下野権少掾に叙任されました。877年(元慶元年)に文章博士になり、880年(元慶4年)に父・菅原是善が亡くなると祖父・菅原清公以来の私塾・菅家廊下を主宰しました。886年(仁和2年)に讃岐守に任命されて下向したが、890年(寛平2年)に第59代・宇多天皇の側近として帰京し、893年(寛平5年)に参議に任ぜられ、899年(昌泰2年)に右大臣に任命され、901年(延喜元年)に従二位に叙せられました。しかしその直後に左大臣・藤原時平の讒言(告げ口)により、太宰府に左遷され、4人の子供も流刑に処され、903年(延喜3年)3月25日に太宰府で亡くなりました。
【北野天満宮 備考】
*参考・・・北野天満宮(歴史・見どころ・・・)ホームページ