北野天満宮地主社・北野天満宮見所(修学旅行・観光)

北野天満宮地主社

●北野天満宮地主社は北野天満宮の摂社です。地主社は「続日本後紀(しょくにほんこうき)・平安時代成立」に「承和三年二月庚午朔、為遣唐使祠天神地祇於北野也」と記され、平安時代前期の836年(承和3年)2月1日に遣唐使の為に天神地祇(てんじんじぎ)を北野に祀られたのが起源とも言われています。北野天満宮創建以前から祀られている境内で最古の社です。江戸時代初期に関白・豊臣秀吉の子・豊臣秀頼の寄進によって社殿が造営され、1877年(明治10年)に北野天満宮の摂社になったと言われています。なお地主社は主祭神に天神地祇、相殿に敦実親王(あつみしんのう)・斎世親王(ときよしんのう)・源英明朝臣(みなもとのひであきらあそん)を祀っています。
天神地祇は天神とも言われる天津神(あまつかみ・天つ神)と地祇(地神・産土神)とも言われる国津神(くにつかみ・国つ神)、つまり全ての神々です。天津神は高天原 (たかまがはら) の神、国津神は天孫である邇邇藝命(ににぎのみこと)の天孫降臨(てんそんこうりん)以前から葦原中国(あしはらのなかつくに)に住む神です。
敦実親王は平安時代前期の893年(寛平5年)に第59代・宇多天皇(うだてんのう)と藤原胤子(ふじわらのいんし)の第8皇子として生まれました。907年(延喜7年)に宇多院で元服し、親王宣下を受けて三品(さんぼん)に叙せられました。その後上野守(こうずけのかみ)・中務卿(なかつかさきょう)・式部卿(しきぶきょう)などを歴任し、950年(天暦4年)に出家して覚真(かくしん)と称し、仁和寺(にんなじ)に住しました。敦実親王は和歌・管弦・蹴鞠など諸芸に通じ、宇多源氏の祖・源家音曲の祖と言われています。なお敦実親王は平安時代中期の967年(寛平5年)4月14日に亡くなりました。
斎世親王は平安時代前期の886年(仁和2年)に第59代・宇多天皇と橘義子(たちばなのよしこ)の第3皇子として生まれました。898年(昌泰元年)に元服し、兵部卿(ひょうぶきょう)・上総守(かずさのかみ)などを歴任した。901年(延喜元年)に義父・菅原道真(すがわらのみちざね)が兄である第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)に譲位させ、斎世親王を天皇に即位させようとしているという讒言(ざんげん)で大宰府に左遷されると仁和寺に入って真寂(しんじゃく)と称しました。なお斎世親王は平安時代前期の927年(延長5年)10月13日に亡くなりました。
源英明朝臣は平安時代前期に斎世親王と菅原道真の三女・寧子の子として生まれました。幼年時代に祖父・菅原道真の左遷によっては不遇であったが、16歳で従四位下(じゅしいげ)に叙せられ、翌年に侍従(じじゅう)に任ぜられました。第60代・醍醐天皇から信任を受け、右近衛中将(うこんえのちゅうじょう)・蔵人頭(くろうどのとう)などを歴任したが、醍醐天皇が第61代・朱雀天皇(すざくてんのう)に譲位すると蔵人頭を辞任しました。931年(承平元年)に宇多上皇(第59代・宇多天皇)が崩御すると不遇になり、公卿(くぎょう)に列することはありませんでした。は叶わなかった。なお源英明朝臣は940年(天慶3年)4月5日に亡くなりました。
豊臣秀頼は安土桃山時代の1593年(文禄2年)8月29日に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿の間の第2子として生まれました。秀頼は秀吉57歳の時の子で、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政(まつうらしげまさ)が拾い上げ、幼名は拾丸(ひろいまる)でした。秀吉は秀頼誕生直後に関白・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の娘と婚約させようとしたが、1595年(文禄4年)に秀次の関白職を奪って自刃させ、秀頼が継嗣としての地位を確定させました。秀頼は秀吉とともに伏見城に住んでいたが、1598年(慶長3年)8月に秀吉が死去すると秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命によって大坂城に移り住みました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に摂津・河内・和泉を知行する一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康の孫、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の子・千姫と結婚しました。しかし1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件によって大坂の陣が勃発し、1615年(慶長20年)6月4日に秀頼は淀殿らとともに大阪城で自害しました。なお秀頼は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
●北野天満宮地主社は本殿が一間社(いっけんしゃ)流造(ながれづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
【北野天満宮 備考】
*参考・・・京都・北野天満宮(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
●北野天満宮の歴史(創建から現在)を紹介しています。
北野天満宮歴史(菅原道真・豊臣秀吉・豊臣秀頼)
●北野天満宮の見どころ(本殿・三光門など)を紹介しています。
北野天満宮見どころ(本殿・三光門など)

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