北野天満宮もみじ苑・北野天満宮見どころ

北野天満宮もみじ苑

●北野天満宮もみじ苑は平安時代前期に宇多上皇(第59代・宇多天皇)が奈良に巡幸した際、お供した菅原道真が山々の紅葉の美しさに感銘を受け、手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)に紅葉の枝を奉じて祈願したことに所縁があります。菅原道真は「このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに・平安時代前期の勅撰和歌集「古今和歌集(こきんわかしゅう)」」と詠みました。北野天満宮もみじ苑には樹齢400年を越えるとも言われる三叉のモミジなど約350本のモミジが植えられ、紙屋川(かみやがわ)に架けられた朱塗りの太鼓橋・鶯橋(うぐいすばし)や茶室・梅交軒(ばいこうけん)に設けた舞台からの眺めが絶景と言われています。
菅原道真は平安時代前期の845年(承和12年)6月25日(旧暦8月1日)に公家・菅原是善(すがわらのこれよし)と母・伴真成(とものまさしげ)の娘の三男として生まれました。幼少の頃から和歌・漢詩に優れ、862年(貞観4年)に18歳で官僚育成機関である大学寮(だいがくりょう)で歴史を学ぶ紀伝道(きでんどう)を専攻する文章生(もんじょうしょう)試験に合格し、867年(貞観9年)に文章生から2名が選ばれる文章得業生(もんじょうとくごうしょう)になり、正六位下・下野権少掾(しもつけごんのしょうじょう) に叙任されました。877年(元慶元年)に式部少輔(しきぶしょう)・大学寮紀伝道の教官である文章博士(もんじょうはかせ)になりました。886年(仁和2年)に讃岐守(讃岐国司)に任命されて式部少輔・文章博士を辞して讃岐国に下向したが、890年(寛平2年)に第59代・宇多天皇の側近として帰京し、893年(寛平5年)に参議(さんぎ)・式部大輔(しきぶのたいふ)に任ぜられ、太政官(だいじょうかん)の最高幹部として国政を担う公卿(くぎょう)に列しました。899年(昌泰2年)に右大臣(うだいじん)に任命され、901年(延喜元年)に従二位に叙せられました。しかしその直後に左大臣(さだいじん)・藤原時平(ふじわらのときひら)の讒言(告げ口)により、太宰府(だぜいふ)に左遷され、4人の子供も流刑に処されました。その後903年(延喜3年)3月25日(旧暦2月25日)に太宰府で亡くなりました。なお菅原道真の死後に京都で悪疫が続き、930年(延長8年)に清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)も起こり、菅原道真の怨霊の仕業と恐れられました。朝廷は923年(延喜23年)に左遷を撤回し、官位を右大臣に復して正二位を贈り、993年(正暦4年)5月に正一位・左大臣を追贈し、同年10月に太政大臣を追贈しました。
手向山八幡宮は東大寺(とうだいじ)の大仏造立の際、奈良時代の749年(天平勝宝元年)に大分・宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)から勧請され、平城宮の南にあった梨原宮に東大寺の守護神として造営されました。手向山八幡宮は宇佐八幡宮の分社では第一号とされ、鎮守八幡宮とも言われていたそうです。第45代・聖武天皇は743年(天平15年)に大仏造立の詔を発し、紫香楽宮(しがらきのみや)で大仏の造立が開始されたが、745年(天平17年)に都が平城京(へいじょうきょう)に戻ると東大寺で大仏の造立が開始され、752年(天平勝宝4年)に大仏開眼供養会(だいぶつかいげんくようえ)が行われ、758年(天平宝字2年)に大仏殿が完成しました。その後平安時代後期の1180年(治承4年)の平重衡(たいらのしげひら)の南都焼討によって焼失し、1188年(文治4年)に東大寺再建勧進職・俊乗坊重源上人(しゅんじょうぼうちょうげんしょうにん)が再建したが、1250年(建長2年)に鎌倉幕府5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)が現在の場所に移しました。
北野天満宮見どころ

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