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北野天満宮楼門・北野天満宮見所(修学旅行・観光)
北野天満宮楼門
●北野天満宮楼門は本殿の正面ではなく、北野天満宮が創建させる以前から祀られていた摂社・地主社(じぬししゃ)の正面に建立され、本殿は筋違いの本殿と言われています。楼門は桃山様式で、両側に随神(ずいしん)像が置かれています。
地主社は北野天満宮が創建される以前から祀られ、北野天満宮の境内で最も古い社と言われています。また地主社は平安時代前期の836年(承和3年)に遣唐使(けんとうし)の為に天神地祇(てんじんちぎ)を祀ったとも言われているそうです。その後関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)の寄進によって社殿が造営され、1877年(明治10年)に北野天満宮の摂社になったと言われています。
一般的に楼門は寺社の入口にある二階建て(重層)の門です。楼門は下層に屋根のないものを言い、下層に屋根があるものを二重門と言います。
随身は平安時代以後に貴人の外出の際、朝廷の命令で護衛として従った者です。随身は弓矢を持ち、太刀を帯びていました。随身は近衛府(このえふ・こんえふ)・舎人(とねり)・内舎人(うどねり)などが務めました。
豊臣秀頼は安土桃山時代の1593年(文禄2年)8月29日に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿(よどどの・浅井茶々(あざいちゃちゃ))の間の第2子として大坂城で生まれました。豊臣秀頼は豊臣秀吉57歳の時の子で、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政(まつうらしげまさ)が拾い上げました。豊臣秀頼は豊臣秀吉とともに伏見城に住んでいたが、1598年(慶長3年)8月に豊臣秀吉が死去すると豊臣秀頼は家督を継ぎ、豊臣秀吉の遺命によって大坂城に移り住みました。豊臣秀頼は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に摂津・河内・和泉を知行する一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の孫、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の子・千姫(せんひめ)と結婚しました。しかし1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)によって大坂の陣が勃発し、1615年(慶長20年)6月4日に秀頼は淀殿らとともに自害しました。
●北野天満宮楼門には額「文道大祖 風月本主(ぶんどうのたいそ ふうげつのほんしゅ)」が掛けられています。「文道大祖 風月本主」は平安時代中期の貴族・文人・儒学者である慶滋保胤(よししげのやすたね)と平安時代中期の貴族・歌人・儒者である大江匡衡(おおえのまさひら)が祭神・菅原道真を讃えた言葉です。「文道大祖」は学問・文学の祖、「風月本主」は漢詩・和歌に長じた人という意味です。
慶滋保胤は丹波権介(たんばごんのすけ)・賀茂忠行(かものただゆき)の子として生まれました。家学の陰陽道(おんみょうどう)を捨て、歴史(中国史など)を教える紀伝道(きでんどう)を志し、姓・賀茂を読み替えて慶滋としました。菅原道真の孫で、大学寮(だいがくりょう)紀伝道の教官である文章博士(もんじょうはかせ)・菅原文時(すがわらのふみとき)に師事し、文章生(もんじょうしょう)から大内記(だいないき)兼近江掾(おうみじょう)になりました。986年(寛和2年)に出家し、その後諸国を遍歴し、1002年(長保4年)11月27日に如意寺(にょいじ)で亡くなりました。
大江匡衡は952年(天暦6年)に中納言・大江維時(おおえのこれとき)の孫で、左京大夫・大江重光(おおえのしげみつ)の子として生まれました。大江音人(おおえのおとんど)を祖とする大江氏(江家)は菅原氏(菅家)と並ぶ学問の家柄で、菅原道真の失脚後に飛躍しました。966年(康保3年)に15歳で大学寮に入って紀伝道を学び、その後東宮学士(とうぐうがくし)や文章博士を経て、正四位下・式部大輔(しきぶのたゆう)になりました。第66代・一条天皇の時代に文人として活躍し、中古三十六歌仙に数えられ、1012年(寛弘9年)8月6日に亡くなりました。
【北野天満宮 備考】
*参考・・・京都・北野天満宮(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
●北野天満宮の歴史(創建から現在)を紹介しています。
北野天満宮歴史(菅原道真・豊臣秀吉・豊臣秀頼)
●北野天満宮の見どころ(本殿・三光門など)を紹介しています。
北野天満宮見どころ(本殿・三光門など)