北野天満宮三光門・北野天満宮見どころ

北野天満宮三光門

●北野天満宮三光門は1898年(明治31年)12月28日に国の重要文化財に指定されました。
●北野天満宮三光門は江戸時代初期の1607年(慶長12年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が建立しました。
豊臣秀頼は安土桃山時代の1593年(文禄2年)8月29日に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿(よどどの・浅井茶々(あざいちゃちゃ))の間の第2子として大坂城で生まれました。豊臣秀頼は豊臣秀吉57歳の時の子で、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政(まつうらしげまさ)が拾い上げました。豊臣秀頼は幼名は拾丸(ひろいまる)で、乳母は宮内卿局(くないきょうのつぼね)・右京大夫局(うきょうのだいぶのつぼね)・正栄尼(しょうえいに)でした。豊臣秀吉は豊臣秀頼誕生直後に関白・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の娘と婚約させようとしたが、1595年(文禄4年)に豊臣秀次の関白職を奪って自刃させ、豊臣秀頼の継嗣としての地位を確定させました。豊臣秀頼は豊臣秀吉とともに伏見城に住んでいたが、1598年(慶長3年)8月に豊臣秀吉が死去すると豊臣秀頼は家督を継ぎ、豊臣秀吉の遺命によって大坂城に移り住みました。豊臣秀頼は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に摂津・河内・和泉を知行する一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の孫、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の子・千姫(せんひめ)と結婚しました。しかし1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)によって大坂の陣が勃発し、1615年(慶長20年)6月4日に秀頼は淀殿らとともに自害しました。なお豊臣秀頼は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
●北野天満宮三光門は楼門と拝殿の間に建立された中門で、第111代・後西天皇御宸筆の勅額「天満宮」が掛けられています。北野天満宮三光門は四脚門で、入母屋造の檜皮葺です。なお「三光」は日・月・星で、星だけが見当たらず、星欠けの三光門と言われています。
第111代・後西天皇は江戸時代前期の1638年(寛永14年)1月1日に第108代・後水尾天皇と典侍・藤原隆子(くしげたかこ・逢春門院(ほうしゅんもんいん))の第8皇子として生まれました。1647年(正保4年)に高松宮好仁親王(たかまつのみやよしひとしんのう)の遺跡を継いで桃園宮・花町宮と称し、1648年(慶安元年)に親王宣下を受けました。1654年(承応3年)10月30日に第110代・後光明天皇が崩御し、養子で、実弟・識仁親王(第112代・霊元天皇)が生後間もなかったことから1655年(承応3年)1月5日に即位し、1663年(寛文3年)3月5日に10歳になった識仁親王に譲位しました。第111代・後西天皇は学問に打ち込み、和歌に優れ、歌集「水日集」・「源氏聞書」・「百人一首聞書」などを記しました。またまた茶道・華道・香道にも精通していました。
一般的に中門は寺院などで外郭と内郭を形作る築地塀・回廊などがある場合、内郭の門を中門と言います。
北野天満宮見どころ

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