北野天満宮松向軒・北野天満宮見どころ

北野天満宮松向軒

●北野天満宮松向軒は安土桃山時代の1587年(天正15年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が行った北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ・北野大茶会)の際、細川忠興(ほそかわただおき・細川三斎(ほそかわさんさい))が建てた茶室を復元したものです。かつての松向軒は江戸時代前期の1628年(寛永5年)に大徳寺(だいとくじ)の塔頭・高桐院(こうとういん)に移されました。
細川忠興(細川三斎)は戦国時代の1563年(永禄6年)11月28日に室町幕府第13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)に仕える細川藤孝(ほそかわふじたか・細川幽斎(ほそかわゆうさい))と正室・沼田麝香(ぬまたじゃこう)の長男として京都で生まれました。足利義輝の命により、形式上一族の奥州家の細川輝経(ほそかわてるつね)の養子になりました。1565年(永禄8年)の永禄の変(えいろくのへん)で足利義輝が殺害され、その後父・細川藤孝が織田信長(おだのぶなが)に仕え、細川忠興は織田信長の嫡男・織田信忠(おだのぶただ)に仕えました。1578年(天正6年)に元服し、織田信忠から1字を与えられ、細川忠興と名乗るようになりました。また同年に織田信長の仲介により、明智光秀(あけちみつひで)の娘・玉子(細川ガラシア)と勝竜寺城で結婚しました。1579年(天正7年)に織田信長の命により、父・細川藤孝や義父・明智光秀とともに丹後国守護・一色義道(いっしきよしみち)を滅ぼし、1580年(天正8年)に父・細川藤孝が丹後国南半国の領主になりました。1582年(天正10年)に義父・明智光秀による本能寺の変が起こると父・細川藤孝とともに喪に服して剃髪し、妻・細川ガラシアを丹後国味土野に幽閉しました。その後関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕え、1588年(天正16年)に豊臣姓を下賜されました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に接近し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで東軍として戦いました。妻・細川ガラシアは人質として大坂城に入ることを拒否して自刃しました。その後丹後国12万石から豊前国中津33万9千石に転封され、その後中津城から小倉城に藩庁を移し、小倉藩初代藩主になりました。1620年(元和6年)に病気の為に三男・細川忠利(ほそかわただとし)に家督を譲って隠居し、出家して三斎宗立と名乗りました。細川忠興は利休七哲のに数えられ、茶道三斎流の開祖です。なお細川忠興は1646年(正保2年)1月18日に亡くなりました。
北野大茶湯(北野大茶会)は関白・豊臣秀吉が北野天満宮境内で行った身分を問わない無礼講の茶会です。北野大茶湯では1,500軒以上の数寄屋や茶屋を建てて客をもてなしたり、豊臣秀吉が所有する名物(茶道具)を公開したりしました。豊臣秀吉は千利休(せんのりきゅう)・津田宗及(つだそうきゅう)・今井宗久(いまいそうきゅう)とともに亭主(茶頭)を務めました。なお北野大茶湯は当初10日間の予定だったが、たった1日で終わったそうです。ちなみに肥後(熊本県)の国人一揆が発生したことが切り上げの理由とも言われています。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長(おだのぶなが)の足軽(百姓)・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院(てんずいいん))との間に生まれました。1554年(天文23年)頃から織田信長に仕え、1561年(天正9年)に浅野長勝(あさのながかつ)の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後戦功を重ねて頭角を現し、1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)後、山崎の戦い(やまざきのたたかい)で明智光秀を破り、四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げ、1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。なお豊臣秀吉は1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。
北野天満宮見どころ

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