北野天満宮伴氏社・北野天満宮見どころ(修学旅行・観光)

北野天満宮伴氏社

●北野天満宮伴氏社は北野天満宮の末社です。伴氏社は一の鳥居から楼門に向かう参道の左手に祀られています。伴氏社は北野天満宮の祭神・菅原道真の母・伴真成(とものまなり)の娘を祀っています。伴氏社は子どもの成長と学業成就を願うお母さんなどに信仰されています。なお鳥居は蓮弁座(反花(かえりばな)座)の土台に乗り、伴氏鳥居・中山鳥居と言われ、京都御苑に祀られている厳島神社(いつくしまじんじゃ)の唐破風鳥居・木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)の三柱鳥居とともに京都三珍鳥居に数えられています。
菅原道真の母・伴真成の娘は大伴氏(伴氏)一族です。大伴氏は邇邇藝命(ににぎのみこと)の天孫降臨(てんそんこうりん)の際、天津久米命(あまつくめのみこと)とともに弓矢などで武装して先駆を務めた天押日命(あめのおしひのみこと)の後裔(こうえい)とされています。大伴氏は大和朝廷の軍事力を担った有力氏族で、6世紀に大伴金村(おおとものかなむら)が物部(もののべ)氏とともに大連(おおむらじ)になり、勢威をふるったが、任那(みまな)4県の百済(くだら)への割譲策で物部氏から失政と咎められて一時失脚しました。672年(天武天皇元年)の壬申の乱(じんしんのらん)の際、第40代・天武天皇(てんむてんのう)となる大海人皇子(おおあまのおうじ)方について再興し、大伴御行(おおとものみゆき)・大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・大伴旅人(おおとものたびと)など多数の公卿(くぎょう)を輩出しました。また日本最古の和歌集「万葉集(まんようしゅう)」の編纂に関わったとも言われる大伴家持(おおとものやかもち)・大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)などの万葉歌人も輩出しました。その後政争に関わった一族が多数処罰されて徐々衰退し、藤原氏が勢力を延ばし、他氏排斥を行いました。平安時代前期の823年(弘仁14年)に大伴親王(おおともしんのう)が第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)に即位するとその諱を避け、伴(とも)氏と氏を改めました。平安時代前期に紀(き)氏とともに武人の故実(武官故実)を伝える家とされたが、武士の台頭とともに歴史の表舞台から姿を消していきました。
●北野天満宮伴氏社は本殿が一間社(いっけんしゃ)流造(ながれづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。
北野天満宮見どころ

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