北野天満宮左近の松・右近の梅・北野天満宮見どころ(修学旅行)

北野天満宮左近の松・右近の梅

●北野天満宮左近の松・右近の梅は本殿(国宝)前に植えられています。松・梅は祭神・菅原道真が大宰府に左遷される際、桜とともに屋敷内で別れを惜しんだと言われています。桜は悲しみのあまりに枯れました。松は菅原道真の後を追って飛んだが、途中で力尽き、摂津国八部郡板宿(兵庫県神戸市須磨区板宿町)に根を下ろし、飛松伝説と言われるようになりました。梅は松と同様に菅原道真の後を追って飛び、一晩の内に大宰府に降り立ったことから飛梅伝説と言われています。なお右近の梅は紅和魂梅(べにわこんばい)です。
紅和魂梅は樹高約5メートル・幹回り約2.7メートルで、樹齢約350年と言われています。2015年(平成27年)に紅和魂梅の保護・保存の為、組織培養とDNA型分析が行われると葉(地上部)と根(地下部)で遺伝子型が異なっているのが分かりました。江戸時代前期に先代の紅和魂梅に現在の紅和魂梅を接ぎ木した可能性が高いと推定されました。ちなみに梅の木では平安時代後期から鎌倉時代の書物に接ぎ木や挿し木が行われていたことが記されています。なお紅和魂梅は飛梅伝説で知られる大宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)の白梅と同種と伝わっています。
大宰府天満宮の白梅は樹齢1,000年を超えるとされています。白梅は根本が3株からなり、大宰府天満宮に植えられている梅の中で、一番先に咲き始めると言われています。白梅は現在本殿前に植えられているが、かつて祭神・菅原道真の配所(府の南館)跡に建立された榎社(えのきしゃ・榎寺)の境内に植えられていたが、その後本殿前に移されました。ちなみに白梅は菅原道真を祭神とする各地の天満宮などに枝分けされたと言われています。
菅原道真は平安時代前期の845年(承和12年)6月25日(旧暦8月1日)に公家・菅原是善(すがわらのこれよし)と母・伴真成(とものまさしげ)の娘の三男として生まれました。幼少の頃から和歌・漢詩に優れ、862年(貞観4年)に18歳で文章生(もんじょうしょう)試験に合格し、867年(貞観9年)に文章生から2名が選ばれる文章得業生(もんじょうとくごうしょう)になり、正六位下・下野権少掾(しもつけごんのしょうじょう) に叙任されました。877年(元慶元年)に式部少輔(しきぶしょう)・大学寮紀伝道の教官である文章博士(もんじょうはかせ)になりました。886年(仁和2年)に讃岐守(讃岐国司)に任命されて式部少輔・文章博士を辞して讃岐国に下向したが、890年(寛平2年)に第59代・宇多天皇の側近として帰京し、893年(寛平5年)に参議(さんぎ)・式部大輔(しきぶのたいふ)に任ぜられ、公卿(くぎょう)に列しました。899年(昌泰2年)に右大臣(うだいじん)に任命され、901年(延喜元年)に従二位に叙せられました。しかしその直後に左大臣(さだいじん)・藤原時平(ふじわらのときひら)の讒言(告げ口)により、太宰府(だぜいふ)に左遷され、4人の子供も流刑に処されました。その後903年(延喜3年)3月25日(旧暦2月25日)に太宰府で亡くなりました。なお菅原道真の死後に京都で悪疫が続き、930年(延長8年)に清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)も起こり、菅原道真の怨霊の仕業と恐れられました。朝廷は923年(延喜23年)に左遷を撤回し、官位を右大臣に復して正二位を贈り、947年(天暦元年)に菅原道真を祀る北野天満宮が創建され、993年(正暦4年)5月に正一位・左大臣を追贈し、同年10月に太政大臣を追贈しました。
北野天満宮見どころ

ページ上部へ戻る