北野天満宮影向松・北野天満宮見どころ

北野天満宮影向松

●北野天満宮影向松はかつて平安時代中期の947年(天暦元年)の北野天満宮創建の際から植えられていたとも言われるご神木です。北野天満宮影向松は北野天満宮の七不思議に数えられています。北野天満宮は松と縁が深く、かつて「北野の松原」と称されていました。北野天満宮では「北野の松原」を復活させようと表参道に松の植樹を行っています。また祭神・菅原道真には飛松伝説も残されています。なお北野天満宮影向松は表参道の一ノ鳥居をくぐたすぐ右手にあり、石の玉垣で囲まれています。
飛松伝説は祭神・菅原道真は大宰府に左遷される際、日頃から愛でてきた屋敷内の梅・桜・松との別れを惜しみました。桜は悲しみのあまりに枯れてしまいました。松は菅原道真の後を追って飛んだが、途中で力尽き、摂津国八部郡板宿(兵庫県神戸市須磨区板宿町)に根を下ろし、飛松伝説と言われるようになりました。梅は松と同様に後を追って飛び、大宰府に降り立ったことから飛梅伝説と言われています。
●北野天満宮影向松では立冬(11月上旬頃)から立春(2月上旬頃)の前日までに初雪が降ると天神さま(祭神・菅原道真)が降臨し、雪見を愛でながら詩を詠まれるという伝説が残されています。なお北野天満宮では初雪が降った日に硯(すずり)・筆・墨を供え、初雪祭が行われています。
菅原道真は平安時代前期の845年(承和12年)6月25日(旧暦8月1日)に公家・菅原是善(すがわらのこれよし)と母・伴真成(とものまさしげ)の娘の三男として生まれました。幼少の頃から和歌・漢詩に優れ、862年(貞観4年)に18歳で官僚育成機関である大学寮(だいがくりょう)で歴史を学ぶ紀伝道(きでんどう)を専攻する文章生(もんじょうしょう)試験に合格し、867年(貞観9年)に文章生から2名が選ばれる文章得業生(もんじょうとくごうしょう)になり、正六位下・下野権少掾(しもつけごんのしょうじょう) に叙任されました。877年(元慶元年)に式部少輔(しきぶしょう)・大学寮紀伝道の教官である文章博士(もんじょうはかせ)になりました。880年(元慶4年)に父・菅原是善が亡くなると祖父・菅原清公(すがわらのきよきみ)以来の私塾・菅家廊下(かんけろうか)を主宰しました。886年(仁和2年)に讃岐守(讃岐国司)に任命されて式部少輔・文章博士を辞して讃岐国に下向したが、890年(寛平2年)に第59代・宇多天皇の側近として帰京し、893年(寛平5年)に参議(さんぎ)・式部大輔(しきぶのたいふ)に任ぜられ、太政官(だいじょうかん)の最高幹部として国政を担う公卿(くぎょう)に列しました。899年(昌泰2年)に右大臣(うだいじん)に任命され、901年(延喜元年)に従二位に叙せられました。しかしその直後に「宇多上皇を欺き惑わした」・「醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」という左大臣(さだいじん)・藤原時平(ふじわらのときひら)の讒言(告げ口)により、太宰府(だぜいふ)に左遷され、4人の子供も流刑に処されました。その後903年(延喜3年)3月25日(旧暦2月25日)に太宰府で亡くなりました。なお菅原道真の死後に京都で悪疫が続き、930年(延長8年)に清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)も起こり、菅原道真の怨霊の仕業と恐れられました。朝廷は923年(延喜23年)に左遷を撤回し、官位を右大臣に復して正二位を贈り、947年(天暦元年)に菅原道真を祀る北野天満宮が創建され、993年(正暦4年)5月に正一位・左大臣を追贈し、同年10月に太政大臣を追贈しました。
北野天満宮見どころ

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