清水寺朝倉堂・清水寺見どころ

●清水寺朝倉堂は1966年(昭和41年)6月11日に国の重要文化財に指定されました。
●清水寺朝倉堂は江戸時代前期の1633年(寛永10年)に再建されました。清水寺朝倉堂はかつて戦国時代(室町時代後期)の1510年(永正7年)に観音を篤く信仰した越前の守護大名で、朝倉氏第9代当主・朝倉貞景(あさくらさだかげ)の寄進によって法華三昧堂(ほっけさんまいどう)として建立されました。法華三昧堂は朱が鮮やかな舞台造だったが、1633年(寛永10年)に全面白木の建物として再建されました。清水寺朝倉堂は2013年(平成25年)に全面解体修復されました。
朝倉貞景は室町時代の1473年(文明5年)3月3日に朝倉氏第8代当主・朝倉氏景(あさくらうじかげ)と斎藤利国(さいとうとしくに)の娘(祥山禎公大姉)の嫡男として生まれました。1486年(文明18年)に父・朝倉氏景が亡くなり、14歳で家督を継ぎました。1487年(長享元年)から斯波氏(しばし)と越前支配権を巡る対立があったが、室町幕府第9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)への訴訟に勝って主従関係を脱し、将軍の直臣になりました。1503年(文亀3年)に朝倉氏の家臣・朝倉景豊(あさくらかげとよ)の反乱を鎮圧し、1506年(永正3年)に侵攻してきた加賀一向一揆の大軍を撃退し、越前国の支配を確立しました。朝倉貞景は信仰心が篤く、京都・清水寺に法華三昧堂(朝倉堂)を建立したり、一乗谷・南陽寺(なんようじ)の方丈を再建したり、安波賀(あばか)に経堂を建立したりしました。また朝倉貞景は画才があったとも言われ、大和絵の絵師・土佐光信(とさみつのぶ)に「京中図」を描かせ、「洛中洛外図」の文献上の初見になりました。なお朝倉貞景は1512年(永正9年)4月11日に亡くなりました。
法華三昧は「法華経(ほけきょう・ほっけきょう)」を通して真理に悟入する方法です。天台宗(てんだいしゅう)では「法華経」・「観普賢経(かんふげんぎょう)」によって真理を観じます。
「法華経(妙法蓮華経)」は紀元前後に起こり、1世紀末にほぼ整ったとも言われる大乗仏教(だいじょうぶっきょう)初期に成立した大乗仏教の重要な経典です。「法華経」は数種のサンスクリット(梵語)原典が現存し、漢訳では竺法護(じくほうご)訳10巻(正法華経(しょうほけきょう))、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳8巻(妙法蓮華経(みょうほうれんげきょ))、闍那崛多(じゃなくった)・達摩笈多(だつまぎゅうた)訳8巻(添品妙法蓮華経(てんぽんみょうほうれんげきょう))の3種が現存し、鳩摩羅什訳8巻がよく知られています。鳩摩羅什は三蔵法師(さんぞうほうし)とも言われる玄奘(げんじょう)とともに二大訳聖と言われています。「法華経」は詩や譬喩(ひゆ・比喩)・象徴を主とした文学的な表現で、仏と成ることのできる唯一の教えである一乗(いちじょう)の立場を明らかにし、永遠の仏を説きます。また「法華経」は出家と在家や男性と女性といった区別なく、誰もが平等に成仏できると説きます。「法華経」は聖徳太子(しょうとくたいし)の時代(574年(敏達天皇3年)~622年(推古天皇))に仏教とともに日本に伝来したと言われ、聖徳太子は「法華経」の注釈書「法華義疏(ほっけぎしょ)」を著しました。日本では「法華経」を根幹として、伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)を宗祖とする天台宗(てんだいしゅう)・日蓮聖人(にちれんしょうにん)を宗祖とする日蓮宗(にちれんしゅう)が開かれました。
清水寺見どころ

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