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清水寺本堂・清水寺見所(修学旅行・観光)
清水寺本堂
●清水寺本堂は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)11月22日に国宝に指定されました。
●清水寺本堂は奈良時代後期の780年(宝亀11年)に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が妻・三善高子(みよしたかこ)の病気平癒の為に薬になる鹿の生き血を求めて音羽山(おとわさん)に入ったが、延鎮上人(えんちんしょうにん)・賢心(けんしん)から鹿狩りの殺生(せっしょう)を戒められ、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の教えを諭され、自らの邸宅を仏殿に寄進したの起源とも言われています。平安時代初期の797年(延暦16年)に坂上田村麻呂は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられ、清水寺で蝦夷(えぞ)平定を祈願し、毘沙門天(びしゃもんてん)と地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の化身とされる若武者と老僧の加勢で勝利し、平安時代初期の798年(延暦17年)に仏殿を大規模に改築し、観世音菩薩の脇侍(わきじ)として毘沙門天・地蔵菩薩を造仏して安置しました。805年(延暦24年)に坂上田村麻呂が太政官符(だじょうかんぷ)によって寺地を賜り、810年(弘仁元年)に第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)の勅許を得て公認の寺院になり、寺号「北観音寺」を賜ったと言われています。平安時代後期の1063年(康平6年)に火災で本堂など全山が焼失し、その後焼失と再建を繰り返してきたと言われています。室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が勃発し、1469年(文明元年)にその兵火で本堂などが焼失し、その後清水寺本願職・願阿上人(がんあしょうにん)が第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)から再建の了承を得て本堂などを再建したが、江戸時代前期の1629年(寛永6年)の大火でも本堂などを焼失し、1633年(寛永10年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の寄進によって現在の本堂が再建されました。
坂上田村麻呂は758年(天平宝字2年)に公卿(くぎょう)・武人である坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)と畝火浄永の娘の次男または三男として生まれたと言われています。780年(宝亀11年)に禁中(きんちゅう)を警護する近衛将監(こんえのしょうげん)になり、787年(延暦6年)に近衛少将(こんえのしょうしょう)になりました。791年(延暦10年)に征東副使(せいとうふくし)に任命され、794年(延暦13年)に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)に従って蝦夷(えぞ)を征討(せいとう)しました。796年(延暦15年)に陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)兼陸奥守(むつのかみ)・鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任命され、翌797年(延暦16年)に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、東北地方全般の行政を指揮する官職を全て兼職しました。801年(延暦20年)春に蝦夷討伐に向かい、同年秋に凱旋(がいせん)しました。翌802年(延暦21年)にも蝦夷討伐に向かい、アテルイ・モレが率いる蝦夷を降伏させ、志波城(しわじょう)を築きました。804年(延暦23年)に再度征夷大将軍に任命され、805年(延暦24年)に参議(さんぎ)になり、806年(大同元年)に中納言(ちゅうなごん)になり、810年(大同5年)に大納言(だいなごん)になりました。平城上皇(第51代・平城天皇(へいぜいてんのう))と第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)とが対立する薬子の変(くすこのへん)が起ると美濃路を固めて上皇軍を鎮圧しました。811年(弘仁2年)1月20日に渤海国の使者を朝集院に招いて饗応した記録が公的な最後の記録とされ、811年(弘仁2年)5月23日に54歳で亡くなりました。811年(弘仁2年)5月27日に従二位(じゅうにい)が贈られ、山城国宇治郡来栖村水陸田三町を墓地として賜わって埋葬されました。坂上田村麻呂は「公卿補任」に「毘沙門天の化身、来りてわが国を護ると云々」と記され、生前から毘沙門天の化身と見られていたようです。また坂上田村麻呂は第52代・嵯峨天皇の勅命によって平安京の東に向かって立ったまま柩(ひつぎ)に納められて埋葬され、「平安京の守護神」「将軍家の祖神」などと称されて武神・軍神とされました。なお「田邑麻呂傳記」・「田村麻呂薨伝」によると坂上田村麻呂は身長5尺8寸(約175センチ)・胸の厚さ1尺3寸(約40せんち)で、赤ら顔で目が鷹のように鋭く、黄金色の顎髭がふさふさしていたとも言われています。
【清水寺 備考】
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