清水寺忠僕茶屋・清水寺見どころ

清水寺忠僕茶屋

●清水寺忠僕茶屋は十一重石塔の立つ広場に建てられています。忠僕茶屋の名称は清水寺の塔頭(たちゅう)・成就院(じょうじゅいん)住職・月照(げっしょう)に幼少時から仕え、月照の九州(薩摩国)下向に付き従った大槻重助(おおつきじゅうすけ)に由来しています。大槻重助は月照が薩摩国の錦江湾で西郷隆盛(さいごうたかもり)とともに入水自殺するとその遺品を京都に持ち帰ったが、捕えられて六角獄舎(ろっかくごくしゃ)に入れられました。ちなみに西郷隆盛は一命を取り留めました。大槻重助は六角獄舎で月照の弟・信海と再開し、その後江戸に送られて伝馬町牢内で病死する信海から後事を託されました。清水寺忠僕茶屋は清水寺が大槻重助の功績に報いる為、遺族・家族に開設権を与えました。
大槻重助は丹波国何鹿郡綾部村字高津に生まれました。幼少時から清水寺の塔頭・成就院住職・月照に仕え、月照が尊皇攘夷運動の公家・西郷隆盛などに接する際に常に従いました。月照が西郷隆盛とともに薩摩国に渡った際も従いました。月照が錦江湾で西郷隆盛とともに入水自殺する京都に戻り、その後捕らえられて半年ほど六角獄舎に入れられました。六角獄舎から解放されると一旦は故郷に戻ったが、その後清水寺に戻り、茶屋・笹屋を買い取って妻とともに茶屋を営み、その後西郷隆盛らの援助で茶屋を改装しました。大槻重助は30年以上に渡って月照・信海の墓を守り続けました。1874年(明治7年)の月照17回忌の際、西郷隆盛から月照を悼む漢詩を託されました。なお大槻重助の墓石は月照・信海のすぐ近くに建てられています。
月照は江戸時代後期の1813年(文化10年)に大坂の町医者の長男として讃岐吉原(香川県善通寺市)で生まれました。1827年(文政10年)に叔父・蔵海の伝手で成就院に入り、1835年(天保6年)に住職になりました。尊皇攘夷運動に傾倒し、公家・西郷隆盛(さいごうたかもり)らと親交を持ちました。幕末に安政の大獄が始まると西郷隆盛とともに京都を脱出して薩摩国に渡ったが、薩摩藩が月照の保護を拒否したことから1858年(安政5年)12月20日に錦江湾で西郷隆盛とともに入水自殺しました。ただ西郷隆盛は一命を取り留めました。ちなみに弟・信海は兄・月照の死後に成就院の住職になったが、その後捕縛され、江戸で獄死しました。なお清水寺では月照の命日である11月16日に落葉忌の法要を行っています。
安政の大獄は1858年(安政5年)に勅許を得ずに日米修好通商条約の調印と徳川家茂(徳川慶福)第14代将軍継嗣の決定を断行した大老・井伊直弼(いいなおすけ)が反対派の雄藩大名・公卿・幕臣・諸藩士らを弾圧した事件です。橋本左内(はしもとさない)・吉田松陰(よしだしょういん)・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らが処刑され、常陸水戸藩第9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)、越前国福井藩16代藩主・松平慶永(まつだいらしゅんがく)らが処罰され、連座者が100名を超しました。安政の大獄後も尊皇攘夷運動が激しくなり、1860年(安政7年)3月24日の桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)で大老・井伊直弼が暗殺されました。
成就院(じょうじゅいん)は室町時代の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火で焼失した清水寺を再興した清水寺本願職・願阿上人(がんあしょうにん)の住房が起源です。その後成就院と名付けられて清水寺の塔頭(たちゅう)になり、伽藍の整備や財政の維持・管理などを担当しました。室町時代後期の1510年(永正7年)に第104代・後柏原天皇の勅願寺(ちょくがんじ)になったが、江戸時代前期の1629年(寛永6年)の火災で焼失しました。1639年(寛永16年)に第108代・後水尾天皇の中宮・東福門院(とうふくもんいん・徳川和子(とくがわまさこ))の寄進で現在の建物が再建されました。
清水寺見どころ

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