清水寺ふれ愛観音・清水寺見所(修学旅行・観光)

清水寺ふれ愛観音

●清水寺ふれ愛観音は奥の院(重要文化財)礼堂の上り縁に安置されています。ふれ愛観音は像高約61センチの金泥(きんでい)塗りの金属製です。ふれ愛観音は参拝者が直接観音様に触れて祈願することができます。ふれ愛観音は清水寺の信徒総代で、仏師・西村公朝(にしむらこうちょう)が造仏して清水寺に寄進しました。
西村公朝は1915年(大正4年)6月4日に大阪府高槻市に生まれました。1935年(昭和10年)に東京美術学校(東京芸術大学)彫刻科木彫部に入学し、現代彫刻家を志しました。4年生の時に古美術研究旅行として京都・奈良を旅行し、世界遺産である奈良・法隆寺(ほうりゅうじ)夢殿(国宝)に安置されている聖徳太子(しょうとくたいし)の等身像とされる救世観音(ぐぜかんのん)像(国宝)に感銘を受けました。1940年(昭和15年)に東京美術学校を卒業し、大阪・私立中学で図画教師になったが、年末に退職し、1941年(昭和16年)に美術院国宝修理所に入所しました。京都・三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の千手観音(せんじゅかんのん)立像(国宝)千体像の修理に加わったが、1942年(昭和17年)に帝国陸軍に招集されて中国各地を転戦しました。転戦中に壊れた仏像が修理を求める夢を見たと言われ、1945年(昭和20年)に復員すると三十三間堂の千手観音立像千体像に修理に戻りました。1951年(昭和26年)に得度して天台宗(てんだいしゅう)の僧侶になり、1955年(昭和30年)に京都・愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)の住職になりました。1959年(昭和34年)に美術院国宝修理所の所長になり、1987年(昭和62年)に天台大仏師法印の称号を受け、1967年(昭和42年)に東京芸術大学の保存修復技術研究主任教授になりました。西村公朝は京都・広隆寺(こうりゅうじ)の弥勒菩薩(みろくぼさつ)半跏像(国宝)などを含む国宝・重要文化財など約1,300体の仏像を修理・修復し、世界遺産である中尊寺(ちゅうそんじ)の慈覚大師(じかくだいし)坐像などを造仏しました。西村公朝は仏像修理の第一人者で、「現代の円空」とも言われました。また西村公朝は「秘仏開眼」・「祈りの造形」・「仏像は語る」などの著書も出版しました。なお西村公朝は2003年(平成15年)12月2日に亡くなりました。
観音菩薩は菩薩の一尊で、観世音菩薩・観自在菩薩・救世菩薩・観音さまなどとも言われています。観音菩薩は人々の救いを求める声を聞き、その苦悩から救済すると言われています。観音菩薩は救う相手の姿に応じて千変万化の相となると言われています。「観音経」では様々に姿を変える三十三応化身が説かれています。三十三応化身は仏身・辟支仏身・声聞身・梵王身・帝釈身・自在天身・大自在天身・天大将軍身・毘沙門身・小王身・長者身・居士身・宰官身・婆羅門身・比丘身・比丘尼身・優婆塞身・優婆夷身・長者婦女身・居士婦女身・宰官婦女身・婆羅門婦女身・童男身・童女身・天身・龍身・夜叉身・乾闥婆身・阿修羅身・迦楼羅身・緊那羅身・摩ご羅伽身・執金剛身です。
奥の院は江戸時代前期の1633年(寛永10年)に再建されました。奥の院はかつて清水寺開基である延鎮上人(えんちんしょうにん)・賢心(けんしん)と行叡居士(ぎょうえいこじ)の草庵跡とも言われています。奥の院は千手観音(せんじゅかんのん)・毘沙門天(びしゃもんてん)・地蔵菩薩(じぞうぼさつ)などを安置しています。奥の院は桁行五間・梁間五間の懸造(かけづくり)で、寄棟造(よせむねづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
【清水寺 備考】
★清水寺の見どころを紹介しています。
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