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清水寺アテルイ・モレの碑・清水寺見所(修学旅行・観光)
清水寺アテルイ・モレの碑
●清水寺アテルイ・モレの碑は1994年(平成6年)に平安建都1,200年を期して建立されました。アテルイ・モレの碑は平安時代初期に清水寺創建の大本願・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍とする蝦夷征討の際に処刑された蝦夷の軍事指導者・アテルイとモレの慰霊の為に建立されました。
アテルイ(阿弖流爲・大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい))は奈良時代末期から平安時代初期に陸奥国胆沢(岩手県奥州市)を本拠とし、北上川(きたかみがわ)流域を支配した蝦夷(えみし)の族長(首領)とも言われています。789年(延暦8年)に征東将軍・紀古佐美(きのこさみ)が率いる征討軍を巣伏の戦い(すぶしのたたかい)で大敗させたが、802年(延暦21年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が率いる征討軍に降伏し、モレ(母礼・盤具公母礼(いわぐのきみもれ))や同族500人とともに降伏しました。アテルイ・モレは坂上田村麻呂に伴われて上京し、坂上田村麻呂の助命懇願は叶わずに河内国(大阪)椙山(すぎやま)で処刑されました。
モレ(母礼・盤具公母礼(いわぐのきみもれ))はアテルイと同じく、蝦夷の族長の1人であったとも言われています。アテルイとともに坂上田村麻呂に降伏し、アテルイとともに処刑されました。
坂上田村麻呂は奈良時代の758年(天平宝字2年)に公卿・武人である坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)と畝火浄永の娘の次男または三男として生まれたと言われています。780年(宝亀11年)に禁中を警護する近衛将監(こんえのしょうげん)になり、787年(延暦6年)に近衛少将(こんえのしょうしょう)になりました。791年(延暦10年)に征東副使に任命され、794年(延暦13年)に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)に従って蝦夷(えぞ)を征討しました。796年(延暦15年)に陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)兼陸奥守(むつのかみ)・鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任命され、翌797年(延暦16年)に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、東北地方全般の行政を指揮する官職を全て兼職しました。801年(延暦20年)春に蝦夷討伐に向かい、同年秋に凱旋しました。翌802年(延暦21年)にも蝦夷討伐に向かい、アテルイ・モレが率いる蝦夷を降伏させ、志波城(しわじょう)を築きました。804年(延暦23年)に再度征夷大将軍に任命され、806年(大同元年)に中納言になりました。810年(大同5年)に大納言になり、平城上皇(第51代・平城天皇)と第52代・嵯峨天皇とが対立する薬子の変(くすこのへん)が起ると美濃路を固めて上皇軍を鎮圧しました。坂上田村麻呂は780年(宝亀11年)頃に自邸を清水寺の本堂として寄進し、798年(延暦17年)に延鎮上人(えんちんしょうにん)とともに本堂を大規模に改築し、805年(延暦24年)に太政官符(だいじょうかんぷ)によって清水寺の寺地を賜ったとも言われています。
なお坂上田村麻呂は811年(弘仁2年)5月23日に54歳で亡くなりました。
【清水寺 備考】
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