清水寺成就院庭園・清水寺見どころ

●清水寺成就院庭園は国の名勝に指定されています。
●清水寺成就院庭園はかつて室町時代初期に赤松氏の山荘があった場所です。成就院庭園は烏帽子石(えぼしいし)・籬島石(まがきじまいし)などの奇石を配した借景式・池泉鑑賞式庭園として作庭され、現在は鑑賞式庭園になっています。成就院庭園には蜻蛉(かげろう)燈籠・手毬(てまり)燈籠・誰ヶ袖(たがそで)手水鉢なども配されています。成就院庭園は室町時代の絵師・連歌師(れんがし)である相阿弥(そうあみ)が作庭し、大名・茶人・作庭家である小堀遠州(こぼりえんしゅう・小堀政一(こぼりまさかず))が改修したとも、江戸時代前期の連歌師・松永貞徳(まつながていとく)が作庭したとも言われています。江戸時代中期の1735年 (享保20年) に北村援琴斎(きたむらえんきんさい)が著した作庭書「築山庭造伝(つきやまていぞうでん)」に典雅温淳(てんがおんじゅん)の体(てい)として庭の全景が記され、江戸時代後期の1799年 (寛政11年) に秋里籬島(あきさとりとう)が著した京都の名園案内「都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)」に詳細な写生図が描かれています。なお成就院庭園は月の庭とも言われ、妙満寺(みょうまんじ)・成就院の雪の庭と廃寺になった成就院の花の庭と合わせ、成就院の雪月花の洛中三名園と言われていました。成就院庭園は北向きの為、池に映る月を観賞していたそうです。
相阿弥は生年不詳で、室町時代の絵師・連歌師・表具師・鑑定家である芸阿弥(げいあみ)の子、室町時代の絵師・茶人・連歌師・表具師・鑑定家である能阿弥(のうあみ)の孫として生まれました。相阿弥は室町時代の絵師・連歌師・鑑定家で、祖父・父に引き続いて足利将軍家に芸能に優れた同朋衆(どうぼうしゅう)として仕え、唐物(中国)の目利き・管理を行った唐物奉行(からものぶぎょう)も務めました。相阿弥は祖父・父などに学び、祖父・能阿弥によって開祖された阿弥派(あみは)の絵画を大成させたり、書院飾りを完成させたりしました。また書画の鑑定・造園・香・連歌・茶道など多方面でも活躍しました。阿弥派の画風は相阿弥・芸阿弥・能阿弥から三阿弥と称されました。
小堀遠州は1579年(天正7年)に備中国松山藩初代藩主・小堀正次(こぼりまさつぐ)と近江国佐和山城主・磯野員昌(いそのかずまさ)の娘の長男として生まれました。1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉の異父弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)が郡山城に移封されると家老となった父とともに郡山に移りました。その後1591年(天正19年)に豊臣秀長、1595年(文禄4年)に豊臣秀長の婿養子・豊臣秀保(とよとみひでやす)が亡くなり、1595年(文禄4年)に豊臣秀吉の直参になって伏見に移り、千利休(せんのりきゅう)とともに茶の湯を大成した茶人で、大名・古田織部(ふるたおりべ)に茶道を学んで第一の弟子と称されました。また公卿・歌人で、上冷泉家9代当主・冷泉為満(れいぜいためみつ)に歌道も学びました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると江戸幕府初代将軍・徳川家康に仕え、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの功によって父・小堀正次が備中松山城を賜りました。その後作事奉行として建築・造園に才能を発揮し、二条城・仙洞御所などを手掛けたました。
松永貞徳は1571年(元亀2年)に京都で生まれました。連歌師・里村紹巴(さとむらじょうは)から連歌、九条稙通(くじょうたねみち)・細川幽斎(ほそかわゆうさい)から和歌・歌学を学ぶ、五十数人に師事したとも言われています。20歳頃に公文書などを記す関白・豊臣秀吉の右筆(ゆうひつ)になり、大名・歌人である木下勝俊(きのしたかつとし・長嘯子(ちょうしょうし))を友としました。1597年(慶長2年)に「花咲翁」の称を朝廷から賜り、俳諧宗匠の免許を許され、号「花の本」を賜りました。1615年(元和元年)に私塾を開いて俳諧を指導しました。家集には「逍遊集」、著作には「新増犬筑波集」・「俳諧御傘」などがあります。
成就院は室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火で焼失した清水寺を再興した清水寺本願職・願阿上人(がんあしょうにん)の住房が起源です。その後成就院と名付けられて清水寺の塔頭(たちゅう)になり、伽藍の整備や財政の維持・管理などを担当しました。戦国時代(室町時代後期)の1510年(永正7年)に第104代・後柏原天皇の勅願寺になったが、1629年(寛永6年)の火災で焼失しました。江戸時代前期の1639年(寛永16年)に第108代・後水尾天皇の中宮・東福門院(とうふくもんいん・徳川和子(とくがわまさこ))の寄進によって現在の建物が再建されました。
清水寺見どころ

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