清水寺平景清爪彫りの観音・清水寺見所(修学旅行・観光)

清水寺平景清爪彫りの観音

●清水寺平景清爪彫りの観音は胎内めぐりが行われている随求堂(ずいぐどう)右側に建立されている石燈籠の火を灯す火袋(ひぶくろ)の中にあります。平景清爪彫りの観音は平景清(たいらのかげきよ)が平家滅亡後、牢獄の中で爪だけで観音像を刻み、清水寺に奉納したとも言われ、清水寺不思議に数えられています。ただ明確には確認できないとも言われています。なお平景清は鎌倉時代前期の1196年(建久7年)に亡くなったとされ、2021年現在、825年経過しています。
平景清は平安時代後期に藤原秀郷(ふじわらのひでさと)流伊藤氏の出身で、平氏譜代(ふだい)の有力家人である上総介(かずさのすけ)・藤原忠清(ふじわらのただきよ)の子・藤原景清(ふじわらのかげきよ)として生まれました。藤原景清は平氏に仕え、都落ちに従ったことから平景清とも言われています。また上総介・藤原忠清の七男として生まれたことから上総七郎(かずさのしちろう)とも言われています。更に勇猛果敢で、叔父で、日本達磨宗(にほん だるましゅう)の開祖・大日房能忍(だいにちぼうのうにん)を殺したことから悪七兵衛(あくしちびょうえ)とも言われました。1180年(治承4年)に平清盛(たいらのきよもり)の孫にあたる第81代・安徳天皇(あんとくてんのう)の内裏(だいり)の警護にあたる滝口武者(たきぐちのむしゃ)になり、源氏の長老・源頼政(みなもとのよりまさ)との戦いに参戦し、富士川の戦い(ふじかわのたたかい)の直後に源氏追討の為に信濃守(しなののかみ)に推挙されました。1183年(寿永2年)に朝日将軍(あさひしょうぐん)と称した源義仲(みなもとのよしなか・木曾義仲(きそよしなか))との戦いに平知盛(たいらのとももり)らに従って参戦し、平氏の侍大将として活躍しました。その後も1184年(寿永3年)の一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)・屋島の戦い(やしまのたたかい)など源平の合戦に参戦したが、1185年(文治元年)の壇の浦の戦い(だんのうらのたたかい)では戦場を逃れ、平氏滅亡後も生き延びました。その後平氏再興を図る平清盛の孫・平知忠(たいらのともただ)の挙兵に加わったが、1195年(建久6年)に奈良・東大寺(とうだいじ)大仏殿再建の落慶法要に上洛(じょうらく)した鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)に降伏し、八田知家(はったともいえ)に預けられたが、その後1196年(建久7年)に断食して自害したとも言われています。ちなみに東大寺の転害門(国宝)は平景清が源頼朝を暗殺しようと隠れたとも言われる伝承が残され、景清門とも言われています。なお平景清は浄瑠璃(じょうるり)「出世景清」などの題材などになっています。
観音菩薩は菩薩の一尊で、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)・観自在菩薩(かんじざいぼさつ)・救世菩薩(くせぼさつ)・観音さまなどとも言われています。観音菩薩は人々の救いを求める声を聞き、その苦悩から救済すると言われています。観音菩薩は救う相手の姿に応じて千変万化の相になると言われ、「観音経」では三十三応化身(さんじゅうさんおうげしん)が説かれています。
燈籠(灯籠)は灯火を灯す器具です。燈籠は寺院で仏像に清浄な灯りを献じる為に仏像を安置する本堂などの堂塔の前に建立されています。燈籠は仏教とともに渡来し、寺院の創建が盛んになった奈良時代から多く造られるようになりました。燈籠は宝珠(擬宝珠)・笠・火袋・中台・竿・基礎などから構成され、火袋に灯火が灯されます。
随求堂は江戸時代中期の1718年(享保3年)に清水寺の塔頭(たっちゅう)・慈心院(じしんいん)を中興した僧・盛松権律師(せいしょうごんりっし)が慈心院の本堂として再建しました。随求堂は清水寺目代職を輩出し、清水寺執行職(住職)を輩出する宝生院(ほうしょういん)に次ぐ地位にあったが、明治維新後の神仏分離令(廃仏毀釈(はいぶつきしゃく))によって衰退しました。
【清水寺 備考】
★清水寺の見どころを紹介しています。
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