清水寺経書堂・清水寺見どころ(修学旅行・観光)

清水寺経書堂

●清水寺経書堂は清水寺の境外塔頭(たちゅう)・来迎院(らいごういん)の仏堂です。経書堂は飛鳥時代頃に厩戸皇子(うまやどのみこ)とも、厩戸王(うまやとおう)とも言われる第31代・用明天皇の第2皇子・聖徳太子(しょうとくたいし)が創建したとも言われています。また経書堂は聖徳太子写経所跡とも言われています。経書堂は聖徳太子が自ら刻んだとも言われる厩戸王(聖徳太子)像を安置しています。厩戸王(聖徳太子)像は像高約90センチ(3尺)で、聖徳太子16歳の姿とも言われています。なお経書堂は能「熊野(ゆや)」に「経書堂はこれかとよ」という台詞で登場します。
清水寺には三職(成就院・宝性院・慈心院)六坊(義乗院・延命院・真乗院・智文院・光乗院・円養院)以外にも来迎院・地蔵院・泰産寺・真福寺・法成寺・南蔵院などの塔頭がありました。
聖徳太子は古墳時代の574年(敏達天皇3年)に第31代・用明天皇と第29代・欽明天皇の第3皇女で、皇后・穴穂部間人(あなほべのはしひとのひめみこ)の第2皇子として生まれました。聖徳太子は父母がいずれも第29代・欽明天皇を父とする異母兄妹で、兄弟婚によって生まれました。聖徳太子は幼少時から聡明で、仏法を尊んだと言われています。585年(用明天皇元年)に第30代・敏達天皇が崩御すると父・橘豊日皇子(第31代・用明天皇)が即位したが、 587年(用明天皇2年)に崩御しました。593年(崇峻天皇5年)に叔母で、史上初の女帝である第33代・推古天皇が即位すると皇太子・摂政になり、第30代・敏達天皇から第33代・推古天皇までの4代に仕えて権勢を振るった蘇我馬子(そがのうまこ)ととともに天皇を補佐しました。聖徳太子は内政・外交などの政治に尽力し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階(かんいじゅうにかい)・604年(推古天皇12年)に十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)を制定したり、607年(推古天皇15年)に小野妹子(おののいもこ)を遣隋使(けんずいし)として派遣したりしました。また聖徳太子は仏教に深く帰依し、聖徳太子建立七大寺(法隆寺(斑鳩寺)・広隆寺(蜂丘寺)・法起寺(池後寺)・四天王寺・中宮寺・橘寺・葛木寺)と言われる法隆寺(ほうりゅうじ)・四天王寺(してんのうじ)などの寺院を創建したり、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著したりして仏教の振興に尽くしました。聖徳太子は飛鳥時代の622年(推古天皇30年)2月22日に斑鳩宮(いかるがのみや)で亡くなりました。
能「熊野(湯谷)」は平宗盛と遠江国池田宿の遊女・熊野の物語です。平宗盛は熊野を寵愛し、京都に留めていたが、熊野には故郷に病の老母がいたことから帰郷を願います。しかし花見の為に許さず、故郷から侍女が上京し、熊野に老母からの手紙を渡しました。熊野は手紙を平宗盛に見せるが、花見への同行を命じます。牛車に乗って清水寺に向かい、熊野は観音さまに寿命を祈願しました。平宗盛は熊野に舞を所望するが、その時雨が降り出して花を散らします。熊野は気持ちを読んだ和歌を平宗盛に見せ、熊野は帰郷を許され、平宗盛の心変わりしない内に急いで帰郷しました。
●清水寺経書堂は入母屋造(いりもやづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。経書堂は唐破風(からはふ)付きです。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
【清水寺 備考】
★清水寺の見どころを紹介しています。
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