清水寺念彼観音力碑・清水寺見どころ(修学旅行・観光)

清水寺念彼観音力碑

●清水寺念彼観音力碑は丹塗り(にぬり)の三間一戸(さんげんいっこ)の八脚門(はっきゃくもん)である西門(重要文化財)下に建立され、参拝者を迎えます。念彼観音力碑は1967年(昭和42年)に清水寺中興開山・大西良慶が本堂(国宝)修理落慶を記念して建立しました。文字は大西良慶93才の筆によるものです。
「念彼観音力(かの観音の力を念じれば)」は「法華経(ほけきょう)は」の全二十八品の内の第二十五品に当たる「観音経(観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん))」の中で、後半部分の普門品偈に「念彼観音力(ねんぴーかんのんりき)」という句が繰り返されています。「念彼観音力」には苦境に陥った際、観音菩薩を信じて一心に「観音力」と念じると観音菩薩が現われ、その力で苦境から助けてくれるという意味があるそうです。なお「観音経」は「法華経」の中から第二十五品の「観世音菩薩普門品」を別出し、訳経僧・鳩摩羅什(くまらじゅう)が散文、訳経僧・闍那崛多(じゃなくった)が韻文を漢訳したものを合わせたものです。また「法華経」は大乗仏教経典です。「法華経」は飛鳥時代に仏教とともに日本に伝来したと言われています。日本最古の正史「日本書紀」には606年(推古14年)に第31代・用明天皇の第2皇子・聖徳太子が「法華経」を講じたことが記されています。「法華経」は詩や譬喩(ひゆ)・象徴を主とした文学的な表現で、仏と成ることのできる唯一の教えである一乗(いちじょう)の立場を明らかにし、永遠の仏を説きます。また「法華経」は出家と在家や男性と女性といった区別なく、誰もが平等に成仏できると説いています。
大西良慶は1875年(明治8年)12月21日に奈良・旧多武峯寺(とうのみねじ)智光院(ちこういん)の住持の次男として生まれました。郡山中学で学び、1889年(明治22年)に15歳で法相宗大本山である奈良・興福寺に入り、千早定朝のもとで出家しました。1890年(明治23年)に聖徳宗の総本山である奈良・法隆寺103世管主・佐伯定胤に唯識学を学びました。1899年(明治32年)に興福寺231世になり、1904年(明治37年)に法相宗管長になりました。その後1914年(大正3年)に清水寺住職も兼務したが、1942年(昭和17年)から清水寺住職に専念しました。1965年(昭和40年)に唯識の学風を高める為に北法相宗を設立し、初代管長になりました。また宗教者・科学者と京都仏教徒会議を結成し、日本宗教者平和協議会会長など仏教界の要職も歴任しました。なお大西良慶は1983年(昭和58年)2月15日に107歳で亡くなりました。
観音菩薩は菩薩の一尊で、観世音菩薩・観自在菩薩・救世菩薩・観音さまなどとも言われています。観音菩薩は人々の救いを求める声を聞き、その苦悩から救済すると言われています。観音菩薩は救う相手の姿に応じて千変万化の相となると言われています。「観音経」では様々に姿を変える三十三応化身が説かれています。三十三応化身は仏身・辟支仏身・声聞身・梵王身・帝釈身・自在天身・大自在天身・天大将軍身・毘沙門身・小王身・長者身・居士身・宰官身・婆羅門身・比丘身・比丘尼身・優婆塞身・優婆夷身・長者婦女身・居士婦女身・宰官婦女身・婆羅門婦女身・童男身・童女身・天身・龍身・夜叉身・乾闥婆身・阿修羅身・迦楼羅身・緊那羅身・摩ご羅伽身・執金剛身です。
本堂(清水の舞台)は1633年(寛永10年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光の寄進によって再建されました。本堂(清水の舞台)は崖・錦雲渓の斜面にせり出すように建立され、内々陣・内陣・外陣(礼堂)・舞台に分かれています。内々陣には33年に1度開扉される本尊・千手観音立像が安置され、舞台では千手観音立像に芸能が奉納されていました。
清水寺見どころ清水寺七不思議

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