清水寺鹿間塚・清水寺見どころ(修学旅行)

清水寺鹿間塚

●清水寺鹿間塚(しかまづか)は鐘楼(重要文化財)北側で、樹木の生い茂った場所にあります。奈良時代後期の780年(宝亀11年)に武人・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が音羽の瀧で延鎮上人(えんちんしょうにん)・賢心(けんしん)と出会い、妻の為の鹿狩りによる殺生を戒められ、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の教えを諭されたことから狩った鹿を鹿間塚に埋葬したと言われています。その後坂上田村麻呂は十一面千手観世音菩薩を本尊として寺院を建立し、音羽の瀧の清らかさにちなんで、清水寺と名付けました。
坂上田村麻呂は奈良時代中期の758年(天平宝字2年)に武人・坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)と畝火浄永の娘の次男または三男として生まれたと言われています。780年(宝亀11年)に禁中(きんちゅう)を警護する近衛将監(こんえのしょうげん)になり、787年(延暦6年)に近衛少将(こんえのしょうしょう)になりました。791年(延暦10年)に征東副使(せいとうふくし)に任命され、794年(延暦13年)に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)に従って蝦夷(えぞ)を征討しました。796年(延暦15年)に陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)兼陸奥守(むつのかみ)・鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任命され、翌797年(延暦16年)に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、東北地方全般の行政を指揮する官職を全て兼職しました。801年(延暦20年)春に蝦夷討伐に向かい、同年秋に凱旋(がいせん)しました。翌802年(延暦21年)にも蝦夷討伐に向かい、アテルイ・モレが率いる蝦夷を降伏させ、志波城(しわじょう)を築きました。804年(延暦23年)に再び征夷大将軍に任命され、806年(大同元年)に中納言(ちゅうなごん)になりました。810年(大同5年)に大納言(だいなごん)になり、平城上皇(第51代・平城天皇(へいぜいてんのう))と第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)が対立する薬子の変(くすこのへん)が起ると美濃路(みのじ)を固めて上皇軍を鎮圧しました。坂上田村麻呂は780年(宝亀11年)頃に自邸を清水寺の本堂として寄進し、798年(延暦17年)に延鎮上人(えんちんしょうにん)とともに本堂を大規模に改築し、805年(延暦24年)に太政官符(だいじょうかんぷ)によって清水寺の寺地を賜ったとも言われています。なお坂上田村麻呂は平安時代前期の811年(弘仁2年)5月23日に54歳で亡くなりました。坂上田村麻呂は第52代・嵯峨天皇の勅命により、武装した姿で平安京の東に向かって、立ったまま葬られたとも言われています。そして王城鎮護・平安京の守護神などと称えられ、武神・軍神として信仰されました。
延鎮上人・賢心は奈良時代から平安時代前期の法相宗(ほっそうしゅう)の僧です。延鎮上人は奈良・子島寺(こじまでら・子嶋寺)の報恩法師(ほうおんほうし)に学び、法相宗の大本山である奈良・興福寺(こうふくじ)の僧となり、報恩法師の死後に子島寺を継いだと言われています。その後奈良時代後期の778年(宝亀9年)に京都に移り、音羽山(おとわやま・乙輪山)に庵を結び、平安時代前期の821年(弘仁12年)に亡くなったとも言われています。
鐘楼は江戸時代初期の1607年(慶長12年)に再建されました。鐘楼は重い梵鐘を釣る為、柱が4脚ではなく、珍しい6脚になっています。鐘楼は桁行一間・梁間二間で、蟇股(かえるまた)に菊花の彫刻などがあります。
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