孤篷庵本堂・孤篷庵見所(修学旅行・観光)

孤篷庵本堂

●孤篷庵本堂は1903年(明治36年)4月15日に国の重要文化財に指定されました。
●孤篷庵本堂は江戸時代後期の1797年(寛政9年)以前に臨済宗(りんざいしゅう)大徳寺派の大本山・大徳寺(だいとくじ)の境外塔頭(けいがいたっちゅう)・雲林院(うんりんいん)の客殿として建立され、1793年(寛政5年)の火災で焼失した本殿に代って雲林院から移して建立されました。
雲林院は平安時代前期に第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)の離宮・紫野院(むらさきのいん)があった場所でした。その後第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう)の離宮になり、仁明天皇の第7皇子・常康親王(つねやすしんのう)に譲られました。869年(貞観11年)に常康親王が亡くなると僧正遍昭(そうじょうへんじょう)に託されて官寺・雲林院になり、884年(元慶8年)に僧正遍昭は天台宗(てんだいしゅう)の元慶寺(がんけいじ)の別院とし、鎌倉時代まで天台宗の官寺として栄え、菩提講(ぼだいこう)・桜・紅葉が知られていました。菩提講は説話集「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)・平安時代末期成立」・歴史物語「大鏡(おおかがみ)・平安時代末期成立」に登場し、桜・紅葉は勅撰和歌集「古今和歌集(こきんわかしゅう)・平安時代前期成立」以降の歌枕(うたまくら)になりました。その後鎌倉時代に荒廃し、鎌倉時代後期の1324年(正中元年)に復興されて臨済宗(りんざいしゅう)大徳寺派の大本山・大徳寺(だいとくじ)の塔頭(たちゅう)になり、天台宗から臨済宗に改められました。その後室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年)の兵火で焼失して廃絶しました。江戸時代中期の1707年(宝永4年)に大徳寺291世・江西宗寛(こうざいそうかん)が再興し、かつての寺名を踏襲しました。なお雲林院境内にはかつて大徳寺の塔頭・真珠庵(しんじゅあん)があり、その境内に紫式部(むらさきしきぶ)産湯の井戸もあり、紫式部はこの一帯で生まれ育たれ、京都市北区紫野の地名が紫式部の名前の由来になったとも言われています。ちなみに紫式部は本名が不明とされています。
●孤篷庵本堂は桁行七間・梁間三間で、入母屋造(いりもやづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
孤篷庵

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