孤篷庵書院・孤篷庵見どころ(修学旅行・観光)

孤篷庵書院

●孤篷庵書院は1903年(明治36年)4月15日に国の重要文化財に指定されました。
●孤篷庵書院・直入軒(じきにゅうけん)は棟札によると江戸時代後期の1799年(寛政11年)に再建されました。書院はかつて大名・茶人で、遠州流の祖・小堀遠州(こぼりえんしゅう)が建て、江戸時代後期の1793年(寛政5)に火災で焼失し、近衛家の河原御殿の建物を移築して再建されたとも言われています。かつて小堀遠州が寝泊まりしたり、仕事を行なったりしたと言われています。書院は床の間・次の間の入口の墨絵部分は狩野探幽(かのうたんゆう)筆の襖絵です。
小堀遠州は1579年(天正7年)に備中国松山藩初代藩主・小堀正次の長男として生まれました。1585年(天正13年)に豊臣秀吉の異父弟・豊臣秀長が大和郡山城に移封されると家老となった父とともに大和郡山に移りました。1591年(天正19年)に秀長、1595年(文禄4年)に秀長の婿養子・豊臣秀保が亡くなり、1595年(文禄4年)に秀吉の直参になって伏見に移り、千利休とともに茶の湯を大成した古田織部に茶道を学んで第一の弟子と称されました。1598年(慶長3年)に秀吉が亡くなると江戸幕府初代将軍・徳川家康に仕え、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの功によって父が備中松山城を賜り、1604年(慶長9年)に父が亡くなると家督を継ぎました。その後作事奉行として建築・造園に才能を発揮し、二条城・仙洞御所などを手掛けたました。なお小堀遠州は1647年(正保4年)に亡くなりました。
近衛家は右大臣・藤原不比等の次男・藤原房前を祖とする藤原北家の嫡流で、太政大臣・藤原忠通の四男で、関白・近衛基実を家祖としています。近衛家は関白で、近衛家2代当主・近衛基通が京都近衛の北、室町の東の邸宅を近衛殿と称したことに由来しています。また平安京の近衛大路にも由来しています。近衛家は九条家・二条家・一条家・鷹司家とともに五摂家に数えられ、大納言・右大臣・左大臣を経て、摂政・関白・太政大臣に昇任できました。また五摂家は藤原氏一族全体の氏長者・藤氏長者にも選出されました。近衛家は戦国時代に近衛家15代当主・近衛尚通(このえひさみち)などの碩学政家や書家を輩出しました。なお近衛家は羽柴秀吉(豊臣秀吉)を猶子にしました。
●孤篷庵書院は桁行六間・梁間六間で、右側面入母屋造(いりもやづくり)・左側面切妻造(きりづまづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。書院は西南に位置する八畳間が主室で、主室の北側に茶室・山雲床(さんぬんじょう)が建てられています。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮・出雲大社などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造よりも格式が上とも言われています。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
孤篷庵

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