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苔寺本堂・苔寺見所(修学旅行・観光)
苔寺本堂
●苔寺本堂は1969年(昭和44年)に京都大学名誉教授・村田治郎(むらたじろう)の設計・監督によって再建されました。苔寺本堂は本尊・阿弥陀如来を安置しています。苔寺本堂には日本画家・堂本印象(どうもといんしょう)が描いた襖絵があります。なお苔寺本堂は西来堂(さいらいどう)とも言われています。
村田治郎は1895年(明治28年)9月23日に山口県に生まれました。1920年(大正9年)に第一高等学校・第二部甲類を卒業し、1923年(大正12年)に京都帝国大学・工学部建築学科を卒業しました。1924年()に満鉄に入社し、1937年(昭和12年)に満鉄を退社して京都帝国大学・工学部建築学科の講師になり、数か月後に京都帝国大学・工学部建築学科の教授になりました。村田治郎は東洋建築史学の第一人者とされ、法隆寺(ほうりゅうじ)・金閣寺(きんかくじ)などの再建に携わりました。1966年(昭和41年)に勲二等瑞宝章を受章しました。
阿弥陀如来は大乗仏教の如来のひとつで、西方の極楽浄土(ごくらくじょうど)の教主とされています。阿弥陀如来は弥陀仏(阿弥陀佛)・無量光仏(むりょうこうぶつ)・無量寿仏(むりょうじゅぶつ)とも言われています。阿弥陀如来は生あるものを全てを救う如来とされています。阿弥陀如来は紀元100年頃に編纂された大乗仏教の経典「無量寿経(むりょうじゅきょう)」によると世自在王仏(せじざいおうぶつ)のもとで出家して修行していた時、法蔵比丘(ほうぞうびく)という菩薩(法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ))であったが、48の誓願(四十八願 (しじゅうはちがん))を立てて修行して仏になり、仏国土である極楽浄土(ごくらくじょうど)を設立して現在もそこで説法しているとされています。
堂本印象は1891年(明治24年)12月25日に京都市で生まれました。1910年(明治43年)に京都市立美術工芸学校を卒業すると西陣織の図案を描いていたが、日本画家を志して京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学)に入学しました。1919年(大正8年)に帝展初出展の「深草」が入選し、帝展第3回展で「調鞠図」が特選になり、帝展第6回展で「華厳」が帝国美術院賞を受賞し、日本画家として認められました。1936年(昭和11年)に京都市立絵画専門学校の教授に就任し、1944年(昭和19年)に帝室技芸員になり、1950年(昭和25年)に日本芸術院の会員になり、1961年(昭和36年)に文化勲章を受賞しました。堂本印象は「訶梨帝母」・「木華開耶媛」・「水郷欲雨」などを描きました。堂本印象は伝統画派を研究し、戦後に伝統的画風を捨て、斬新な洋画的新画風を生み出しました。なお堂本印象は1975年(昭和50年)9月5日に亡くなりました。
●苔寺本堂は入母屋造(いりもやづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。なお765年(天平宝字9年・天平神護元年)に奈良・西大寺(さいだいじ)で銅板葺が用いられたのが最古の記録とも言われています。
【苔寺 備考】
*参考・・・苔寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
●苔寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
苔寺歴史(聖徳太子・行基菩薩)
●苔寺の見どころ(庭園・開山堂など)を紹介しています。
苔寺見どころ(庭園・開山堂など)