苔寺開山堂・苔寺見どころ(修学旅行)

苔寺開山堂

●苔寺開山堂は1878年(明治11年)に再建されました。苔寺開山堂は行基菩薩(ぎょうきぼさつ)・真如法親王(しんにょほっしんのう)・夢窓疎石(むそう そせき)の位牌と藤原親秀(ふじわらのちかひで)夫妻・夢窓疎石の木像を祀っています。なお苔寺開山堂は東の空を指し、視線を戻すと忽然と消えていたという亮座主(りょうざす)と熊秀才(ゆうしゅうさい)の逸話から指東庵とも言われています。
行基は飛鳥時代後期の668年(天智天皇7年)に高志才智(こしのさいち)と蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)の長子として河内国大鳥郡で生まれました。682年(天武11年)に15歳で大官大寺(だいかんだいじ・大安寺(だいあんじ))で出家し、法相宗(ほっそうしゅう)初伝の道昭(どうしょう)や法相宗の祖・義淵(ぎえん)らに法相宗を学び、民衆に仏法の教えを説き、寺院や道場を創建するだけでなく、困窮者の為に布施屋(ふせや)の設立などの社会事業も行いました。740年(天平12年)に第45代・聖武天皇から依頼されて大仏造立に協力し、743年(天平15年)に大仏造立の勧進に起用されました。しかし大仏造立中の749年(天平21年)に菅原寺(すがわらでら・喜光寺(きこうじ))で81歳でなくなりました。なお行基は738年(天平10年)に朝廷から行基大徳の称号が授与され、745年(天平17年)に日本初の大僧正位を授与されました。
真如法親王は平安時代初期の799年(延暦18年)に第51代・平城天皇と伊勢継子(いせの つぎこ)の第3皇子として生まれました。809年(大同4年)に父・平城天皇が譲位して第52代・嵯峨天皇が即位すると皇太子に立てられたが、翌810年(大同5年)の薬子の変で父・平城上皇(第51代・平城天皇)と第52代・嵯峨天皇が対立すると皇太子を廃されました。822年(弘仁13年)に四品(しほん)に叙せられたが、出家して「真如」と名乗りました。真言宗の僧・宗叡(しゅうえい)、法相宗の僧・修円(しゅうえん)、真言宗の宗祖である弘法大師・空海の弟子として修行し、弘法大師・空海の十大弟子の1人に数えられ、弘法大師・空海の埋葬に立ち合いました。861年(貞観3年)に朝廷から入唐求法を許可され、翌862年(貞観4年)に明州(中国)に到着し、864年(貞観6年)に長安(中国)に到着しました。しかし会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ)で仏教が衰退し、865年(貞観7年)に皇帝から許可されて海路で天竺(インド)を目指し出発したが、その後消息を断ちました。881年(元慶5年)の留学僧・中かんらの報告によると羅越国(らえつこく)で亡くなったと言われています。
夢窓疎石は鎌倉時代の1275年(建治元年)に伊勢国(三重県)に生まれました。幼少時に出家し、母方の一族の争いで甲斐国(山梨県)に移り、1283年(弘安6年)に甲斐・平塩寺(へいえんじ)の空阿(くうあ)に師事して天台宗・真言宗などを学びました。1292年(正応5年)に奈良・東大寺(とうだいじ)戒壇院の慈観(じかん)のもとで受戒し、その後京都・建仁寺(けんにんじ)の無隠円範(むいんえんぱん)に禅宗を学びました。その後鎌倉に赴き、奥州などを遊歴し、鎌倉時代後期の1325年 (正中2年) に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇の勅によって京都・南禅寺(なんぜんじ)の住持になりました。南北朝時代(室町時代)に室町時代初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)の帰依を受け、京都・苔寺(こけでら)の中興開山になり、京都・天龍寺(てんりゅうじ)の開山になりました。夢窓疎石は1351年(観応2年・正平6年)10月20日に亡くなりました。なお夢窓疎石は歴代天皇から国師号を生前に夢窓国師(むそうこくし)・正覚国師(しょうがくこくし)・心宗国師(しんしゅうこくし)、死後に普済国師(ふさいこくし)・玄猷国師(げんにゅうこくし)・仏統国師(ぶっとうこくし)・大円国師(だいえんこくし)に渡って賜与され、七朝帝師(しちちょうていし)とも称されました。
藤原親秀は鎌倉時代後期に摂津守・藤原親致(ふじわらのちかむね)の子として生まれました。鎌倉時代に苔寺を再興した摂津守・中原師員(なかはらのもろかず)の4第目の孫にあたります。従五位下に叙され、掃部頭(かもんのかみ)・鎌倉幕府評定衆(ひょうじょうしゅう)に任ぜられました。また松尾大社(まつのおたいしゃ)の社司も務めました。1341年(暦応4年)頃に亡くなりました。
苔寺見どころ

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