苔寺湘南亭・苔寺見どころ

苔寺湘南亭

●苔寺湘南亭は1907年(明治40年)8月28日に国の重要文化財に指定されました。
●苔寺湘南亭は茶人・千利休(せんのりきゅう)の次男・千少庵(せんのしょうあん)が再建したと言われています。苔寺湘南亭はかつて夢窓疎石(むそうそせき)の時代に建立されたとも言われています。苔寺湘南亭では1591年(天正19年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の逆鱗に触れた茶人・千利休が一時移ったとも言われています。また幕末(江戸時代末期)に公家・岩倉具視(いわくらともみ)が隠れ住んでいたとも言われています。
千少庵は戦国時代(室町時代後期)の1546年(天文15年)に能楽師・宮王三郎三入(みやおうさぶろうさんにゅう)と母・宗恩(しゅうおん)の間に生まれたとも言われています。実父は大和国の戦国大名・松永久秀(まつながひさひで)とも言われています。母・宗恩が茶人・千利休の後妻になると千利休の養子(次男)になりました。ちなみに千利休の長男・千道安(せんのどうあん)と同い年でした。その後千利休の娘・お亀と結婚し、嗣子・千宗旦(せんのそうたん)が生まれました。千宗旦は義父・千利休の希望で大徳寺(だいとくじ)に喝食(かつじき)として預けられ、春屋宗園(しゅんおくそうえ)のもとで禅の修行を積んで得度しました。1591年(天正19年)に義父・千利休が関白・豊臣秀吉の逆鱗に触れて切腹すると会津の蒲生氏郷(がもううじさと)のもとで蟄居を命じられ、若松城(鶴ヶ城)内に茶室・麟閣(りんかく)を造りました。安土桃山時代の1594年(文禄3年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)、蒲生氏郷のとりなしで赦され、京都に戻って千家(京千家)を再興し、千宗旦を還俗させました。その後隠居し、千宗旦を後見しました。千少庵は典雅で柔らかな茶風と言われ、剛の道安(千道安)に対して柔の少庵と言われました。なお千少庵は1614年(慶長19年)10月10日に亡くなりました。
●苔寺湘南亭は本家・待合及廊下から構成されています。本家は桁行五間・梁間二間で、入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺、待合及廊下は桁行三間・梁間一間で、切妻造(きりづまづくり)のこけら葺です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。飛鳥時代(593年~709年)に建立された法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔(国宝)の屋根にも用いられています。
苔寺見どころ

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