金地院本堂・金地院見どころ

金地院本堂

●金地院本堂は1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財に指定されました。
●金地院本堂は江戸時代前期の1611年(慶長16年)に金地院崇伝(こんちいんすうでん・以心崇伝(いしんすうでん))が江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)から安土桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が築城した伏見城の遺構を賜って建立したとも、1627年(寛永4年)に金地院崇伝が新造したとも言われています。
金地院崇伝は戦国時代(室町時代後期)の1569年(永禄12年)に室町幕府幕臣・一色秀勝(いっしきひでかつ)の次男として京都に生まれました。1573年(天正元年)に父・一色秀勝が亡くなり、南禅寺(なんぜんじ)266世・玄圃霊三(げんほうれいさん)のもとで出家しました。その後鷹峯金地院の靖叔徳林(せいしゅくとくりん)の法を嗣ぎ、醍醐寺(だいごじ)の塔頭・三宝院(さんぼういん)で学びました。摂津福厳寺(ふくごんじ)・相模禅興寺(ぜんこうじ)の住職になりました。1605年(慶長10年)に37歳で鎌倉五山第1位の建長寺(けんちょうじ)の住職になり、同年3月に鎌倉五山・京都五山の別格である南禅寺270世になり、第107代・後陽成天皇から紫衣(しえ)を賜りました。1608年(慶長13年)に相国寺(しょうこくじ)の西笑承兌(さいしょうじょうたい)の推薦により、江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に招かれ、幕政に参画して三要 元佶(さんようげんきつ)とともに主に外交事務を担当し、1610年(慶長15年)に居寺として駿府城内の金地院を賜りました。また寺社行政の担当にもなり、寺院諸法度の整備も行いました。更にバテレン追放令・禁中並公家諸法度の制定にも関わりました。1614年(慶長19年)からの大坂の陣の端緒となった方広寺(ほうこうじ)の鐘銘事件にも関与したとも言われています。1616年(元和2年)に徳川家康が亡くなり、その後の神格化の対応で一時権勢を失ったが、幕閣の執り成しで許されました。1618年(元和4年)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)から江戸城北の丸に屋敷を与えられて金地院を建立しました。なお金地院崇伝は1633年(寛永10年)2月28日に江戸城内の金地院で亡くなりました。
徳川家光は江戸時代初期の1604年(慶長9年)8月12日に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と浅井長政(あざいながまさ)の娘・江(ごう・崇源院(すうげんいん))の次男として江戸城西の丸に生まれました。徳川家光は病弱で、吃音(きつおん)があり、1606年(慶長11年)に徳川秀忠と江に寵愛される弟・徳川忠長(とくがわただなが)が生まれると世継ぎ争いが起こり、元和年間(1615年~1624年)に春日局による徳川家康への直訴によって徳川家光が世継ぎに決着しました。1620年(元和6年)に元服し、名前を徳川家光に改め、従三位権大納言に任命されました。1623年(元和9年)7月27日に徳川秀忠とともに上洛して伏見城で将軍宣下を受け、江戸幕府3代将軍になり、正二位内大臣に任命されました。なお徳川家光は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
伏見城は安土桃山時代の1592年(天正20年)に豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に関白職を譲った豊臣秀吉(とよとみひでよし)が平安時代から観月の名所であった伏見指月(しげつ)に隠居所として隠居屋敷を建設したのが始まりです。1593年(文禄2年)に豊臣秀頼(とよとみひでより)が誕生し、大坂城を豊臣秀頼に譲る為に隠居屋敷の大規模な改修が始まり、1594年(文禄3年)に城下町の整備も行われ、いずれも五奉行であった浅野長政(あさのながまさ)・前田玄以(まえだげんい)・増田長盛(ましたながもり)などの家臣団屋敷や大名屋敷がありました。しかし1596年(慶長元年)の慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)によって建物が倒壊しました。その後北約500メートルにある木幡山(こばたやま)に場所を移して築城が再開され、1597年(慶長2年)5月に天守閣が完成し、豊臣秀吉が移ってきたが、1598年(慶長3年)8月18日に豊臣秀吉が伏見城で亡くなりました。1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)が起こり、1601年(慶長6年)3月に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が伏見城に入城し、二条城の築城と伏見城の再建に着手しました。1619年(元和5年)から一国一城令によって廃城が決定し、1625年(寛永2年)に破却が完了しました。
●金地院本堂は桁行約26.3メートル・梁間約19.6メートルで、入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。飛鳥時代(593年~709年)に建立された法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔(国宝)の屋根にも用いられています。
金地院見どころ

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