金地院東照宮・金地院見どころ

金地院東照宮

●金地院東照宮は1956年(昭和31年)6月28日に国の重要文化財に指定されました。
●金地院東照宮は江戸時代前期の1628年(寛永5年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の遺言で造営され、徳川家康の遺髪と念持仏が祀られています。金地院東照宮は小堀遠州(こぼりえんしゅう)作と言われています。江戸時代中期の1693年(元禄6年)に江戸幕府が千両を掛けて社殿回りの修復などを行い、1714年(正徳4年)にも江戸幕府が社殿回りなどの修理を行いました。
徳川家康は戦国時代(室町時代後期)の1543年(天文11年)に三河国額田郡岡崎城主・松平広忠(まつだいらひろただ)と於大の方(おだいのかた)の長男として生まれました。幼少期に織田氏・今川氏の人質として過ごし、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で織田信長(おだのぶなが)が今川義元(いまがわよしもと)を討つと岡崎に戻り、織田信長と同盟を結んで勢力を拡大しました。安土桃山時代の1582年(天正10年)の本能寺の変(ほんのうじのへん)で織田信長が自刀するとは関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)と対立するが、その後和睦して豊臣秀吉の天下統一に協力し、豊臣政権の五大老筆頭になりました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなり、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で西軍に勝利し、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍になりました。1605年(慶長10年)に徳川秀忠に将軍職を譲って大御所になり、1615年(慶長20年)に大坂の陣で豊臣氏を滅亡させました。なお徳川家康は1616年(元和2年)6月1日になくなりました。
小堀遠州(小堀政一(こぼりまさかず))は安土桃山時代の1579年(天正7年)に備中国松山藩初代藩主・小堀正次(こぼりまさつぐ)と近江国佐和山城主・磯野員昌(いそのかずまさ)の娘の長男として生まれました。1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の異父弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)が郡山城に移封されると家老となった父とともに郡山に移りました。その後1591年(天正19年)に豊臣秀長、1595年(文禄4年)に豊臣秀長の婿養子・豊臣秀保(とよとみひでやす)が亡くなり、1595年(文禄4年)に豊臣秀吉の直参になって伏見に移り、千利休(せんのりきゅう)とともに茶の湯を大成した茶人で、大名・古田織部(ふるたおりべ)に茶道を学んで第一の弟子と称されました。また公卿・歌人で、上冷泉家9代当主・冷泉為満(れいぜいためみつ)に歌道も学びました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に仕え、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)の功によって父・小堀正次が備中松山城を賜りました。その後作事奉行として建築・造園に才能を発揮し、二条城・仙洞御所などを手掛けたました。また江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の茶道師範にもなりました。1619年(元和5年)に近江小室藩に移封され、1624年(元和9年)に伏見奉行になり、1647年(正保4年)に伏見奉行屋敷で亡くなりました。
●金地院東照宮には本殿・拝殿・石の間があり、拝殿の天井に絵師・狩野探幽(かのうたんゆう)が描いた「鳴龍」があります。
狩野探幽は江戸時代初期の1602年(慶長7年)に狩野永徳(かのうえいとく)の孫、狩野孝信(かのうたかのぶ)の子として京都で生まれました。4歳の時に自ら筆をとって描いたとも言われ、1612年(慶長17年)に江戸に下り、その途中の駿府で江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に謁し、1617年(元和3年)に16歳で江戸幕府の御用絵師になりました。1621年(元和7年)に江戸城鍛冶橋門外の屋敷を本拠として、幕命によって日光・芝・上野の徳川家霊廟の装飾や江戸城の障壁画を制作しました。また大坂城・二条城・名古屋城・京都御所などの障壁画も制作しました。1623年(元和9年)に鍛冶橋狩野家を興し、1635年(寛永12年)に出家して探幽斎と称し、僧位・法眼(ほうげん)に叙せられ、1662年(寛文元年)に宮内卿法印(くないきょうほういん)になって狩野派の権威を不動のものとしました。狩野探幽は狩野派の大画様式に水墨画や大和絵などの技法を取り入れ、優美で、あか抜けた瀟洒(しょうしゃ)な様式に変えました。なお狩野探幽は1674年(延宝2年)に亡くなりました。
金地院見どころ

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