金地院鶴亀の庭・金地院見所(修学旅行・観光)

金地院鶴亀の庭

●金地院鶴亀の庭は特別名勝です。
●金地院鶴亀の庭は1629年(寛永6年)に金地院崇伝(こんちいんすうでん)が江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の為に小堀遠州(こぼりえんしゅう)に作庭され、1632年(寛永9年)に完成しました。鶴亀の庭では庭師が賢庭(けんてい)と言われています。なお鶴亀の庭は蓬莱式(ほうらいしき)枯山水庭園です。
金地院崇伝は戦国時代(室町時代後期)の1569年(永禄12年)に室町幕府幕臣・一色秀勝(いっしきひでかつ)の次男として京都に生まれました。1573年(天正元年)に父・一色秀勝が亡くなり、南禅寺(なんぜんじ)266世・玄圃霊三(げんほうれいさん)のもとで出家しました。その後鷹峯金地院の靖叔徳林(せいしゅくとくりん)の法を嗣ぎ、醍醐寺(だいごじ)の塔頭・三宝院(さんぼういん)で学びました。摂津福厳寺(ふくごんじ)・相模禅興寺(ぜんこうじ)の住職になりました。1605年(慶長10年)に37歳で鎌倉五山第1位の建長寺(けんちょうじ)の住職になり、同年3月に鎌倉五山・京都五山の別格である南禅寺270世になり、第107代・後陽成天皇から紫衣(しえ)を賜りました。1608年(慶長13年)に相国寺(しょうこくじ)の西笑承兌(さいしょうじょうたい)の推薦により、江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に招かれ、幕政に参画して三要 元佶(さんようげんきつ)とともに主に外交事務を担当し、1610年(慶長15年)に居寺として駿府城内の金地院を賜りました。また寺社行政の担当にもなり、寺院諸法度の整備も行いました。更にバテレン追放令・禁中並公家諸法度の制定にも関わりました。1614年(慶長19年)からの大坂の陣の端緒となった方広寺(ほうこうじ)の鐘銘事件にも関与したとも言われています。1616年(元和2年)に徳川家康が亡くなり、その後の神格化の対応で一時権勢を失ったが、幕閣の執り成しで許されました。1618年(元和4年)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)から江戸城北の丸に屋敷を与えられて金地院を建立しました。なお金地院崇伝は1633年(寛永10年)2月28日に江戸城内の金地院で亡くなりました。
徳川家光は江戸時代初期の1604年(慶長9年)8月12日に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と浅井長政(あざいながまさ)の娘・江(ごう・崇源院(すうげんいん))の次男として江戸城西の丸に生まれました。徳川家光は病弱で、吃音(きつおん)があり、1606年(慶長11年)に徳川秀忠と江に寵愛される弟・徳川忠長(とくがわただなが)が生まれると世継ぎ争いが起こり、元和年間(1615年~1624年)に春日局による徳川家康への直訴によって徳川家光が世継ぎに決着しました。1620年(元和6年)に元服し、名前を徳川家光に改め、従三位権大納言に任命されました。1623年(元和9年)7月27日に徳川秀忠とともに上洛して伏見城で将軍宣下を受け、江戸幕府3代将軍になり、正二位内大臣に任命されました。なお徳川家光は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
小堀遠州(小堀政一(こぼりまさかず))は安土桃山時代の1579年(天正7年)に備中国松山藩初代藩主・小堀正次(こぼりまさつぐ)と近江国佐和山城主・磯野員昌(いそのかずまさ)の娘の長男として生まれました。1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の異父弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)が郡山城に移封されると家老となった父とともに郡山に移りました。その後1591年(天正19年)に豊臣秀長、1595年(文禄4年)に豊臣秀長の婿養子・豊臣秀保(とよとみひでやす)が亡くなり、1595年(文禄4年)に豊臣秀吉の直参になって伏見に移り、千利休(せんのりきゅう)とともに茶の湯を大成した茶人で、大名・古田織部(ふるたおりべ)に茶道を学んで第一の弟子と称されました。また公卿・歌人で、上冷泉家9代当主・冷泉為満(れいぜいためみつ)に歌道も学びました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に仕え、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)の功によって父・小堀正次が備中松山城を賜りました。その後作事奉行として建築・造園に才能を発揮し、二条城・仙洞御所などを手掛けたました。また江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の茶道師範にもなりました。1619年(元和5年)に近江小室藩に移封され、1624年(元和9年)に伏見奉行になり、1647年(正保4年)に伏見奉行屋敷で亡くなりました。
枯山水は池や遣水(やりみず)などの水を用いず、地形や石・砂礫(されき)などで山水の風景を表現する庭園様式です。枯山水は水がない庭で、石で滝、白砂で水などを表現する石組みを主体とし、植物が用いられてもごく僅かです。枯山水は中国の庭園や中国の宋(そう)・明(みん)の山水画(破墨山水(はぼくさんすい))などの影響を受け、南北朝時代(1336年~1392年)から室町時代(1336年~1573年)に禅宗寺院を中心に発達しました。禅宗寺院では方丈前庭などに多く作庭されました。枯山水は最初実景の写実的な模写が多かったが、次第に象徴化・抽象化が進み、石の配列による空間構成の美が重視されるようになった。枯山水は仮山水(かさんすい)・故山水(ふるさんすい)・乾泉水(あらせんすい)・涸山水(かれさんすい)などとも言われています。
金地院見どころ

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