金戒光明寺文殊塔・金戒光明寺見どころ(修学旅行・観光)

金戒光明文殊塔

●金戒光明寺文殊塔は1977年(昭和52年)6月27日に国の重要文化財に指定されました。
●金戒光明寺文殊塔は1633年(寛永10年)に豊永宗如(伊丹重好)が江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の菩提を弔う為に建立したと言われています。文殊塔には仏師・運慶作で、かつて岡崎・宝幢寺(ほうどうじ)の本尊だったとも言われる文殊菩薩・脇侍(優填王・仏陀波利三蔵・最勝老人)を安置していたが、2008年(平成20年)に御影堂に移されました。また欠失していた善財童子も古式に準じて新調されました。なお文殊塔は奈良・安倍文殊院(あべもんじゅいん)と天橋立・智恩寺(ちおんじ)ととともに本朝三文殊に数えられました。
一般的に三重塔は仏教の祖・お釈迦さまの遺骨(仏舎利(ぶしゃり))を納める仏塔です。仏塔は紀元前3世紀頃から造られるようになったお釈迦さまの遺骨(仏舎利)を祀る饅頭形(半球形)のストゥーパが起源とも言われています。ストゥーパはインド(天竺(てんじく))から中国に伝えられると高層の楼閣建築形式になり、朝鮮半島から日本に伝わったと言われています。
文殊菩薩は菩薩の一尊です。文殊菩薩は一般的に普賢菩薩とともに釈迦如来の脇侍とされています。文殊菩薩は諸仏の智慧を司り、「三人寄れば文殊の智恵」ということわざの由来になっています。文殊菩薩は般若波羅蜜(はんにゃはらみった)を説き、般若経(はんにゃ)を編集したとも言われています。「華厳経」では東方清涼山に住むとされ、中国五台山の清涼寺が霊地にあたるとされています。日本では奈良・葛城山が霊地とされています。文殊菩薩は右手に知剣、左手に青蓮華(しょうれんげ)を持ち、獅子(しし)にのる像容で表わされます。
徳川秀忠は1579年(天正7年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康と側室・西郷局の三男として生まれました。1579年(天正7年)に長兄・松平信康が切腹し、1584年(天正12年)に次兄・松平秀康が関白・豊臣秀吉の養子になり、その後結城氏を継いだことから実質的な世子になりました。1590年(天正18年)に秀吉が造営した聚楽第で元服し、秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗るようになり、豊臣姓も与えられました。1595年(文禄4年)に秀吉の養女・江を継室としました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは間に合わず、父・家康から叱責を受けたが、1605年(慶長10年)に将軍職を譲られ、江戸幕府第2代将軍になりました。秀忠は父・家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定し、幕政の整備に努め、徳川氏の世襲的政権を確立しました。1623年(元和9年)に嫡男・徳川家光に将軍職を譲り、1632年(寛永9年)に亡くなりました。
●金戒光明寺文殊塔は高さ約22メートルの三間三重塔婆(さんげんさんじゅうとうば)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
金戒光明寺見どころ

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