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衡梅院本堂・衡梅院見所(修学旅行・観光)
衡梅院本堂
●衡梅院本堂は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財に指定されました。
●衡梅院本堂は江戸時代初期の1604年(慶長9年)に建立されました。本堂は棟札によると1604年(慶長9年)に真野蔵人の寄進により、大工・藤原吉次が再建し、江戸時代中期の1760年(宝暦10年)に改修されたと言われています。本堂は雪江宗深(せっこうそうしん)の木像を安置しています。
雪江宗深(仏日真照禅師)は室町時代前期の1408年(応永15年)に摂津(兵庫県)に生まれました。最初に京都・建仁寺(けんにんじ)五葉庵(ごようあん)の文瑛(ぶんえい)に師事して出家し、その後尾張国(愛知県)・瑞泉寺(ずいせんじ)の日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)に参禅して師事し、更に日峰宗舜の法嗣(ほうし)で、京都・龍安寺(りょうあんじ)開山・義天玄承(ぎてんげんしょう)に師事して印可(いんか)を受けました。義天玄承が亡くなると室町幕府管領・細川勝元(ほそかわかつもと)が深く帰依(きえ)し、龍安寺主に招請されて継ぎました。その後京都・妙心寺(みょうしんじ)、摂津国・海清寺(かいせいじ)、河内国・観音寺(かんのんじ)、尾張国・瑞泉寺、丹波国・龍興寺(りゅうじうじ)を歴住し、1462年(寛正3年)に京都・大徳寺(だいとくじ)41世住持になりました。室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年)が起こると丹波国・龍興寺(りゅうこうじ)に避難し、応仁の乱後に第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の勅命を受け、細川勝元・細川政元(ほさおかわまさもと)父子の援助を受け、大徳寺・妙心寺・龍安寺を再興しました。また土岐成頼(とき しげより)の開基として正法寺の開山にもなりました。雪江宗深は妙心寺四派の開祖となる龍泉派(龍泉庵(りょうせんあん))・景川宗隆(けいせんそうりゅう)、東海派(東海庵(とうかいあん))・悟渓宗頓(ごけいそうとん)、霊雲派(霊雲院(れいうんいん))・特芳禅傑(とくほうぜんけつ)、聖澤派(聖澤院)・東陽英朝(とうようえいちょう)などの弟子を育て、妙心寺の六祖と仰がれています。雪江宗深は晩年に衡梅院に退き、1486年(文明18年)7月3日に亡くなりました。仏日真照禅師(ぶつにちしんしょうぜんじ)と勅諡(ちょくし)されました。
●衡梅院本堂は桁行約18.9メートル・梁間約11.9メートルで、入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
衡梅院