高台寺梵鐘・高台寺見どころ

●高台寺梵鐘は重要文化財です。
●高台寺梵鐘は江戸時代前期の1606年(慶長11年)に北政所(きたのまんどころ)の兄・木下家定(きのしたいえさだ)が三条釜座・藤原対馬守国久(ふじわらつしまのかみくにひさ)に鋳造させて寄進しました。高台寺梵鐘には弓箴善彊(きゅうしんぜんきょう)による撰文があります。高台寺梵鐘は2010年(平成22年)に老朽化の為に鐘楼から撤去されました。
木下家定は戦国時代(室町時代後期)の1543年(天文12年)に杉原定利(すぎはらさだとし)と朝日殿(あさひどの)の長男として生まれました。父・杉原定利は婿養子で、母・朝日殿の実家に住んでいたと言われています。初め杉原家を継いで杉原孫兵衛を名乗っていたが、妹・北政所が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし・木下藤吉郎(きのしたとうきちろう))と結婚し、豊臣秀吉が立身出世すると家人になり、義弟・豊臣秀吉の姓である木下を名乗るようになりました。1584年(天正12年)に杉原家次(すぎはらいえつぐ)が亡くなると豊臣秀吉の一門衆で筆頭格になりました。1585年(天正13年)に豊臣秀吉の異父弟・羽柴秀長(とよとみひでなが)が大和郡山城に移ると播磨姫路城の城代になり、1587年(天正15年)に従五位下・肥後守に叙任され、羽柴姓を与えられました。その後従三位・中納言に叙任され、豊臣姓を与えられました。1595年(文禄4年)に播磨姫路城の城主になり、大坂城の留守居にも任ぜられました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで大坂城を出て中立を保ち、京都新城の妹・北政所を警護しました。ちなみに木下家定の五男・小早川秀秋(こばやかわひであき)は東軍(徳川方)に寝返り、豊臣家衰退の契機を作りました。1601年(慶長6年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の命によって備中足守藩2万5千石に移封されたが、領国に下らずに京都に住んで出家しました。1604年(慶長9年)に二位法印に叙されました。なお木下家定は1608年(慶長13年)10月4日に亡くなりました。
弓箴善彊は関白・豊臣秀吉と同郷とも言われる曹洞宗の僧です。関白・豊臣秀吉の命により、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の神宮寺・神応寺(じんのうじ)の住職になりました。豊臣秀吉が1592年(文禄元年)に朝鮮出兵する際に石清水八幡宮に参詣し、神職に従軍を求めたが、それに応じる神職がおらず、豊臣秀吉の怒りを買いました。その際に弓箴善彊が機転を利かし、神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐にあやかるなら神功皇后の子である第15代・応神天皇(八幡神)を祀る神応寺に参詣するのがよいと進言し、機嫌を直した豊臣秀吉から寺領120石を寄進されたと言われています。ちなみに弓箴善彊は肥前国・名護屋城(なごやじょう)までお供したと言われています。
高台寺見どころ

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